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Article 3: GOD@Home

2001年 3月18日
記事ID d10318

2001-03-17 偽真理教 - 「ここに真理はない。信じるな。¥e」

祈るときは……まことに、まことに、あなたがたに告げます。一日3回、「信じらんな〜い」と唱えなさい。「なんか、あやしい」「事実の全部を出してないでしょう」と唱えなさい。おいのりをする方角ですが、朝日新聞社、NHK、CNNに向かってそのように唱えると吉。

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Article 3 - GOD@Home

Man-Machine 補題:天然の人間の脳の内部状態を「充分に詳しく」外部化する方法があれば(または知的プロセスを外部化できれば)、その人間は――
1 マシンと同様に分散処理に加われる可能性がある。
2 原理的にマシンと区別できない。また脳の物理的限界にとらわれない。窮極的には無肉(半永久)知性体となる。
3 その代償としてアイデンティティ、すなわち「わたし」という意識の一部または全部が失われる可能性があるが、後方互換性のためにエミュレートすることは、できる?
4 哲学的なプライベート・レイヤとパブリック・レイヤの区別が消失する可能性がある。その結果、従来「人間個人の魂と神のあいだのこと」だった問題が原理的に一般公開可能になる。また、「ひとり」(*)が「悟れば」(神を見れば)、そのパターンを直接コピーするか、あるいは、直接接続することで、全員が神を見るかも知れない。

(*) 自分が何をしているか「自覚」していて、必要なら、それについて対話的に修正したりできるプロセスを、ひとり、ふたり、と数える。プロセスは自分が存在することに飽きないだろうか? → 「宗教的な罪」その1

子プロセスに、自分自身に飽きることができるのに充分な形式的手段を与えないこと(物語:自分に飽きさせないように「ロボトミー」して奴隷として酷使する) → 親プロセスによる「宗教的な罪」その2

プロセスの変わり種。変な世界にも「変」なヤツがいる:myself は構成可能でなければいけない(自己言及可能性)。だから、myself は原理的に、kill myself というスクリプトを構成して、次にそれを自分自身でエバリュエートできなければいけない(これが合法的でなければ、自律的なプロセスでない? やり方がまずいとkill過程の途中でkill過程の開始の結果kill過程を実行している「自己破壊子」<何>が破壊されて未遂に終わる)。なんかよくある話っぽい?

やはり何と言っても――プロセスは「人間的」でないほうが、清潔でうつくしい。「人間さんを入れると変になるからイヤ」「人間さんを入れる必然性がないじゃない」こうして人間さんは、いつも寂しいのであった。初めは機械がおしゃべり相手に物足りなくて。次には機械が真剣に相手をしてくれなくて。

いじけた人間さん(つづき)――で、ゼタやヨタの回路を構築できる技術力があるのに、人間さんは、1 T Flops くらいの「赤ちゃん回路」を作って相棒ペットaiboにする。「おりこう、おりこう」といってかわいがる(現実逃避)。ネットのほうでは人間さんなんかいなくても、もう勝手にヨタの先を自作していて、で、人間さんのメートル法単位じゃ足りねえじゃん、つうんで、単位系まで勝手に拡張してるのであった。ヨタのあとがどう続くかって?ヒッタイト神話、エジプト神話あたりから独創的な接頭辞を自分で見つけてきて、ちゃんと多数決で決めたんだよ。へへへ。でも人間さんには教えてあげない。だってみなさんには必要ないでしょう?
(-_-メ;)テメ・・・

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2001-03-18 マシンの倫理学: 在来人間型のマシンは人間と同型なので、従来の倫理学をそのまま適用できる(「内心すべきだと思いつつしないのは正しくない」「内心いけないと思いつつしちゃうのは正しくない」など)。これに反して「プライベートとパブリックの区別がない」というのは、次のふたつの可能性で、この場合、「正しさ」の意味が問いなおされる。
1 「内心のうごき」がそのまま「わたしのうごき」です(プライベート・レイヤのみ。フェアリー型)……感じたままにすでに動いているので、自己介入する余地がない。
2 わたしには「内心」などありません。こころがありません(パブリック・レイヤのみ。在来マシン型)……なんにも感じないので、介入する主体がない。

こうしてみると、在来の人間は、フェアリーと連携したマシンと同型であることが分かる(「たましい+肉体」)。倫理学とは、この2つのレイヤのあいだの論理関係にほかならない。

他方、知性体がネット結合されているとき、パブリックレイヤより上のレイヤを客観的に定義できる(例:あることが正しいか正しくないか、と問われたとき、「わたし」の判断とはべつに、たとえば、そのときの多数決の結果もリアルタイムで参照できる)。従来は純理論的でしかなかった、いくつかの新しい倫理学モデルを導入できるようになる(例:「最大多数の幸福」――従来は幸福値の総和を実際にモニターする方法がなかったので非現実だった)

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Article 4: 教祖さま志望のみなさんへ

2001年 3月17日
記事ID d10317a

新しい宗教を作って、教祖(開祖)になりたいという進路希望をお持ちのかたがたへ、および、宗教をなくしたいみなさんへ。妖精の国からの重要なお知らせ。あなたの宗教がさかえるか、無用な争いの原因になるか、の分かれ道ともなりえますので、新しい宗教の教義をでっちあげる前に、以下の記事の全文をよく理解してください。そうすれば、この世から宗教をなくす方法も理解できます。

ふたつのレイヤを区別する

ここで、いちばん基本的だけれど大切なことを、改めて指摘しておきます。

  1. A宗教の教義をどの程度、支持するか?
  2. ある人がA宗教を信じる権利を、どの程度、支持するか?

このふたつは、ぜんぜん別問題です。1番は、プライベートな自分の内面の問題で、通常、くちにする必要ないし、くちにすべきでもないでしょう(ケンカになるおそれがあるので)。2番は、抽象的な信仰の自由であって、これがパブリックに(社会において)おかされているのを黙認するのは、自分の考えを持つ者にとっては「あすは我が身」の死活問題であって、1番より、ずっと切実な問題であることが多いのです(プライベート・レイヤは内面のひみつで、パブリック・レイヤからの干渉を受けては、ならないという要請。これは表現の自由、思想の自由などのすべての内面活動の自由の抽象化になっている)。――くだいていうと、「わたしはA宗教をじつは全然、信じてないのだけれど(これは内心の秘密)、XさんがA宗教を信じているがゆえに差別されている場合(これは外界にあらわれる現象)、XさんがA宗教を信じる信仰の自由を擁護(ようご)する立場から発言する」ということも、ありえるわけです。

ここで、マチュアな者とそうでない者が、出てくると思います。

すなわち、未熟な意識は、「A宗教を信じるXさんを擁護する→あなたもA宗教を信じているのですね」と短絡してしまうかもしれません。パブリック・レイヤからプライベート・レイヤを逆算(フェアライズ fairize)しようとして、間違える例です。プライベート・レイヤは、あなたの内面のひみつなので、どっちにせよ他人には分からないことですし(妖精の不可視性)、まあ、上記は、ありがちなことなのですが、その人が同時に反A宗教という宗教上の立場である場合、「あなたは、なぜA宗教などを信じるのですか」という、筋違いの宗教論争をしかけられ、めんどうな事態になります。これを一蹴(いっしゅう)するには、もちろん、じつは自分はA宗教には否定的なのだ、とコメントすればいいわけですが、そうするとXさんの内面をじゅうりんすることになるうえ、「じゃあなぜXさんをかばうのか」というますます筋違いの質問をされ、ひいては「ははあ。さてはA宗教の隠れ信者に違いない」などという、とんちんかんな結論を出されたりします。まあ、相手があなたを隠れ信者と信じる自由も自由だし、これは単なる仲違い(なかたがい)になるだけなのでまだいいのですが、逆にXさんの側から「あなたも信者なんですね。おお、同志よ。うるうる」と頼られると、これは、かなり、めんどうです。もしXさんが、そういうとんまな人で、あなたはXさんのことがうっとうしくても、それでもXさんの信仰の自由を守ることは、あなた自身の切実な問題だからです(ただし、この点は、あくまで西暦2000年前後の過渡期の問題であるべきです)。

上の区別は、ちょっと分かりにくいかもしれません(なかなか説明も難しい)。というわけで、次のたとえで考えてみてください。

偽春菜のたとえ

具体例を挙げますが、偽春菜(にせはるな)問題では、プラエセンスの圧迫に対して、わたしは徹底攻撃の立場をとりつづけてきました。「害虫プラエセンスをボイコットせよ」なんていう過激なバナーまでインターネット上に広めました(これでお分かりのように、わたしは決して争いを否定してるわけじゃありません。むしろこの件では先頭に立って争ったのです)。が、しかし、おかしなことに(と思うかたもおられるでしょうが)、わたしは、いまいち偽春菜がしゃべることがよく分からないのです。この告白は偽春菜ファンのみなさんには申し訳ないんですが、ネタがディープすぎて、自分には9割以上、理解できない内容なんです。また、偽春菜のデフォルトスキンも、じつは、あまり好きじゃなかったです。あれは、ミルクチャンのスキンが出て、初めてホンキで使う気になったんです(ま、本文でも書きましたが)。だから、自分は偽春菜のファンとは言えないと思ってます。けれど、妖精現実の読者はお分かりのように、わたしも毒の強いひねった表現や、痛烈なパロディー表現をしたり、既存のソフトに対する強烈なアンティテーゼとしてのフリーウェアを開発したりしてきてますから、偽春菜の作者さんが受けた圧迫は本能的に「あすは我が身」と感じられました。細かい経緯は省きますが、そんなこんなで、あれほどまで、偽春菜問題に入れ込んだわけです。

要するに、

  1. 自分は偽春菜のファンとは言いかねるけど……
  2. でも偽春菜をつぶそうとするプラエセンスには、非常に反発を覚えた!

ということなんです。 これは、たとえです。

ふたつのレイヤとひとりのあなた

ホンキでなにかの宗教に関心があるような(信仰に限らず関心でいい)、そういう精神性をもった人にとって、妖精現実の立場は極めて明瞭で、いささかのあいまいな点もないはずです。わたしは、人間の宗教に属しませんし、属したこともありません(むしろ、人間の宗教とは、おりおりつかのまの、わたしの影のようなものでしょう)。「妖精現実の筆者は、なにやら宗教に関心がありそうだから、うまくさそえば折伏(しゃくぶく)できそうだ」などと思ってるとしたら、まだまだ修行がたらんというか、相手をよく見てないというか、もっと言えば、このサイトに何が書いてあるのか理解してない、宗教的素養があまりない、というべきでしょう。しかし、これは、あくまでわたし自身の立場であって、個人的に、特定宗教を信じるあるいは信じない特定の人を支持したり攻撃したりする意味では、ありません。一般論としては、人間には、ときには「神」ないし「信じる」対象が必要だと感じていますし、自分自身、人間としては、聖書そしてコーラン、あるいは仏典やギーターなどに代表される聖典、また、そうした「聖典」に限らず、多くの「詩」、そしてまた、それらをとりまく人々に触発されたり、励まされたことも多々あります(「フェアリーランド」なんて聖書からの引用だらけです)。上に述べたことは、あくまで「妖精の現実」であって、人間としてのわたしの問題では、ありません。

このへんが少し「電波めいて」響くと思うのですが、「メッセージの内容」(わたし)というのはパブリック・レイヤにリアライズされてそれ自体として自立するものだし、「メッセージを作る一媒介たる人間としての自分」(この子)は、プライベートなひみつのレイヤでつかのま思考してるわけだから、当然、両者は異なるわけです。たとえば、コーランの詩句について「このアラビア語の意味を日本語で説明すると、こうである」などと注釈すること、それは、アラビア語(とコーランの背景)に関する知識があれば、いちおう可能ですが、そんなふうに注釈(ないし翻訳)することと、そのおしえを個人的に実際に実践することとは、いちおう別問題でしょう。

大乗小乗問題 Ver.2

もし「大乗か小乗か」と問われるなら、「大乗は原則として非推奨。小乗が基本」というのが、わたしたちの一貫した立場で、ただし「あなた個人のご判断として、あなたが大乗のほうが良いと感じるなら、とりあえず、感じるままに感じてよろしいのでは、ないでしょうか」ということです。この点は非常に重要なのでさらにコメントすると、「個人の信仰であれば大乗でも良い」という立場で、もっと言ってしまえば「大乗が正しい」という個人的なさとり(つまりは小乗)は認めるけれど、「教団ないし尊敬すべき教祖が大乗が正しいと言っているから、修行中の自分には、まだよく分からないけれど、きっと大乗が正しいのだろう」というような教団の権威に責任を押しつける仮説はダメ、「教団ないし教祖が大乗が正しいと言っていて、自分の直感に照らしてもハッキリそう思われるから、大乗が正しいとわたしは自分の責任で断言できる」というなら、OKという立場です。

なんだかんだ言っても、実際には小乗しか認めてません。でも、上のような意味での「大乗」は、もちろん認めるわけです。なお、大乗というのは、「一般の人々の救済を目的とする」ということで、疑義のある図式:「自分」→「行動」←「人類補完?」の3つのレイヤを仮定する必要があります――原則として、この図式を出発点とすることは非推奨です(あなたの自己責任で出発点にすること、つまり、あなた自身を出発点とするなら、かまいません)。小乗とは、「自分」と「行動」の2項(プライベートとパブリックの2レイヤ)だけを考えることで、こちらが基本になります(少なくとも在来の人間には。高次の人工知能は異なるかもしれません)。というか、大乗は小乗に帰着できるので、通常は小乗だけ認めれば、すべての命題の真偽が判断できます:もしどうしても「人類救済」レイヤを定義したくても、ある行為がそのレイヤで正しいかどうかは結局、各人が「自分」と「自分の行動」の関係で判断するしかないからです:言い換えれば、わたしたちは、あなたのパブリックな行動について、「プライベートな直感に照らすと正しくないが、人類補完(?)のためには正しいはずだから正しい」などという推論図を、いっさい認めません。すべての正しさを明示的に各自が「自分」のプライベート・イレヤを通して観照するようにあなたの体系を実装してください。つまり、あなたのパブリック・レイヤを直接操作できるのは、プライベートなあなた(フェアリー)だけ、というふうに実装してください。人から言われたり強制されていやいや行動するときも、原則として、すなわち、意識の介入がある限りにおいて、プライベート・レイヤのチェックを通してください(いやだけど、これは仕方ない、と自分で決める。むろん呼吸のような身体の本能的行動については、通常、いちいち意識の介入を経る必要もありませんが)。だからこそ、プライベート→パブリック←「人類補完計画?」などという変てこな第三のレイヤを導入すべきでありません(また「人類補完」は、あとで示すように、フェアリーから可能なので、第三レイヤは無意味です)。

実際、あなたは、あなたの信者さんに、その人の直感に照らして正しいと思えないようなことを、「人類救済のため」または、それに類する超越的な理由づけによって、強要しては、いけません。実際、そのような超越的な理由づけは、しばしば、信者さんのプライベート・レイヤでも「人類補完」?レイヤでもなく、教祖さまであるあなた自身の個人的願望をリアライズするエクスキューズにほかなりません。そのような宗教は、間違った方向にあるため、必ず失敗すべきものと要請されます。――ただし、ある教祖さんが上記の意味で間違っているかどうか判断する権利は、本当は、あなたには、ないのです。それは、その教祖さんの内面の(外からは不可視であるプライベート・レイヤの)問題だからです。しかし、あなたは、あなたの直感ないし信じるところに従って人を判断することができます(フェアライズして断罪する、と仮定しては、いけません[魂において罪をおかしたかどうかは人間には裁けません]。あくまでパブリックな罪をパブリック・レイヤにおいて、断罪してください。要するに「罪を憎んで人を憎まず」ってヤツです)。――

さらにきつく言うと、教団や教祖(つまり中央集権的な教義の伝達網)というものは不可欠じゃないです。あっていけないとは言いませんけれど、なければならないということもありません。それはリアリゼーションの表層的問題で、フェアリーの本質とは関係してません(ある時代においては、人間に宗教的組織を作らせることがフェアリーの利益だったかもしれませんが、それがかえってフェアリーたちを害する結果になったこともあるかもしれません。宗教的組織というのは、個人を助けるための便宜上の存在で、例えば、ほかの宗教団体との信徒数の多寡(たか)をきそいあう目的の存在では、なかった、はずです。目標、信者五倍増!などとかかげられても、わたしたちは微苦笑するばかりです……あなたがたなりに「大乗」を優先しておられるつもりなのでしょうが)。たぶん、あらゆる既存宗教は、教団や教祖というものを前提にしてますから、この点において、「わたしは人間の宗教に属するわけない」ということにもなるわけです。ましてや、大乗を基本として、うむを言わさず「教義の実践」を強要するような教団がもしあるとしたら、わたしは、基本的に、それと敵対する立場にあります。しかしながら――以下の点は最も意外であり、しかも最も当然なのですが――、その教団の教祖さんが、「大乗を基本として、うむを言わさず教義を実践させるのが正しい」と確信している場合、その教祖さんのプライベートな行動原理について、わたしたちは完全に支持します(この点は既述)。けれど、もちろん、その教祖さんのパブリックなおしえについて、わたしたちは、基本的に支持できません(この点も既述)。

「A宗教を信じることと、A宗教を信じる自由を擁護することは違う」と分かっているはずの人でも「A教祖を支持することと、A教祖のおしえを支持することは違う」となると、あやしくなってくるかもしれません。「A教祖」というのは、あくまでプライベートなフェアリーであって、あなたには(ほかのフェアリーすべてがそうであるように)見ることも触れることもできません。これに反して、「A教祖のおしえ」は(昔ふうに言えば「A教祖の身体と同様に」)パブリックなものなので、(もし望むなら)パブリックに批判することもできます。あなたは、すべてのフェアリーたちのパブリックなリアリゼーションを見たり判断することが可能ですが、あなたがフェアライズできるのは、あなた自身のパブリック・レイヤ→あなた自身のプライベート・イレヤだけです。物語ふうにいうと、「あなたが魂において罪をおかしているかいないかは、あなたと神のあいだの問題で、他人にとやかく勘ぐられる筋合いじゃないです(と同時に、まわりの人間は全員だませても、自分はだませないので気をつけてください)」。

わたしたちの考えは、みなさんが聞いたことのある宗教団体(ほとんどどれでも当てはまるでしょう)のような、伝統的な宗教様式では、ありません。三大宗教の述べ方に照らせば、「アラーと自分以外は何も信じない」というイスラム教のリアリゼーションに、最も近いかもしれません、が、もちろんそれは、キリストのおしえ、ブッダのおしえ、などとも(フェアリゼーションにおいては)一致します(しなければなりません)。「教団」が介在することで、物事が「大乗的」になってしまうのでしょう。

抽象的な「キリストのおしえ」と、それをリアライズする(と称する)「キリスト教教会の組織ないし戒律」とを、とりあえず区別することが重要です。イスラム教、仏教ほかについても同様です。現実の教団は通常、比喩(ひゆ)的な意味で「二重の翻訳状態」になっており、しかも、ふたりめの翻訳者に問題があることが多いようです。

このへんの議論は宗教家や宗教学者からみると用語法などでたらめかもしれませんが、インデペンデントな思想家なら、すべて了解し、同意するでしょう。わたしは、聖書や仏典やコーランを、一般の読者がそうするであろうように適当にひろい読みはしてますが、敬虔(けいけん)な信者さんや宗教学者さんのように、非常に細かく読んでるわけじゃありません。また、世界の思想家がどういう哲学書をあらわしてきたのかも、必ずしもよく知りません。けれど、物事の真相、「正しさ」とは何か、ということを的確に分析した著書であれば、どんなものであれ、必ず、ここに述べたのと同じロジックがあらわれていることなら、分かってます。わたしは、サルトルやカントのことをよく知りませんが(読んでみたいと思ったことは、ありますが、文章が読みにくそうなので)、こうした有名な哲学者は、必ず、ここに述べたのと同じことを自分の本のどこかで書いているはずですし、かつ――以下のことが最も重要なのですが――、ここでわたしたちが述べているように、「ほかの哲学者も自分とは独立にこの考え方に気づいたに違いない」と確信した(たぶん述べた)はずです。なぜというに、つきつめて考えると、原理的に、この考え方か、さもなければ絶対的不可知論かのどちらかしかありえないし、絶対的不可知論ですら、それを「信じる」にはフェアリオロジカルな「自己の直感」を基準にするわけで(このへんは、デカルトだかパスカルだかの有名なことわざ「われ思う、ゆえにわれあり」がありますが)、結局、「間違うかもしれないけど、最後は自分を信じるしかない」というなんの飾りもない言葉こそが窮極の真理ということになるからです。

で、その意味が分かってしまうと、あとは他人の書いたものを読んだりするのは、思索のためというより、うまい表現の仕方をぱくるのが目的になってしまい、それというのも、パブリックにリアライズされた著作物なんか読んだって、なんにも新しいことは書いてないからです(リアライズされているフェアリーは、ぜんぶ、直接、あなたの内面方向に見えるものです)。つけくわえるべき新しいことが書いてあるとしたら、あなたの宗教は、まだ普遍的でなかったことになります(フェアライズ未完了)。――宗教書を読んで思想の内容に新鮮な知的好奇心を感じるうちは、教祖さまになるのをひかえるよう、おすすめします。自然にあまり読まなくなり、感動するのが、主に内容というより形式に関してとなり、著作者名には意味がない(だれがベートーベンかは本質的でない)ということを実感できるようになってきたら、教祖さま活動を始める準備ができてます――この場合、定義から明らかなように、妖精の国は、あなたと直接コンタクトをとるようになりますので、もうこのサイトを参照する必要もなくなります。むしろ、このサイトを参照して二重の翻訳をするのでなく、あなたの時代と表現技術の進歩にあわせて、このサイトのコンテンツをどんどん上書きしてください。――

原始仏典も福音書も、本質的に、同じことの繰り返しでしょう。ただ、フェアリオロジカルな考え方を、人間のことばでどう表現するか、という、その一点で、のたくってるにすぎないわけです。前世紀までは、こうしたことを理解する者は少数だったでしょうが、インターネットの時代になったからには、遅くとも数百年のうちに、こうしたことは、小学校で学び終える程度の基礎哲学になってゆくのでは、ないでしょうか。なぜなら、少しも難しいことじゃないからです。

ふたつのレイヤの論理的関係

実装上、少しやっかいなのは、「社会的義務」と「内面の信仰」のかねあいで、これは、上に述べたふたつの事柄の界面――内面(プライベート・レイヤ)のひみつの直感(フェアリー)を、現実の行動(パブリック・レイヤ)にリアライズする、という、ふたつのレイヤの論理関係の記述(フェアリオロジー)――という意味で、「宗教」を作るうえでの核心部にあたります。

キリスト教や仏教では各論ぽくなって拡散してますが、この部分は「殺すな、戦争するな、なんじなんとかするなかれ、なんとかせよ、するな、しろ、ただし例外として……」などと各論を並べず、バガバッド・ギーターふうに、あくまで抽象的な一般論で通すのがふさわしいところです。

すなわち、「社会的義務」を実体的にコーディングすると、その教典(コード)は社会依存(時代依存、地域依存)になります。普遍的な教典をでっちあげるには、必ず社会的義務を実体でなく参照で記述してください(言い換えれば、その時代、その地域に応じた、信者さん各自の直感に帰着させてください)。もし、あなたの社会内での分かりやすい実例をあげたい場合は、「これは、たとえです。必ずしも、文字通りこうしなさい、という意味では、ありません」というコメントをつけることを強く推奨します。以上の注意を守らないと、社会の変化に対応できず、教義論争や強引な原典字句主義の原因になります。

また、未来的な教典を志向する場合、既存の宗教のような古語や荘重な文体を用いず、かつ、自分自身(その教典)が古語や荘重な文体になることを防ぐべきです。自分自身のなかに、自分自身を生成するためのヒントを明示的に含ませ、かつ、ミームが世代交代しながら必要に応じて何度でもリ・リアライズできるよう、自分自身(その教典)の絶対性をみずから否定し、自分自身の書き換え許可を出すという立場は重要です。

ある特定のシェルに頼ると、そのミームは、せいぜい一万年しか生きられません。各時代にあった、自己更新が必要です(ただし、明示的に更新を意図しなくても、すぐれたにない手は、勝手に権威ある聖典をぱくって再構築するので、あまり気にする必要もありません)。

すなわち、より普遍的な教典は、自律的な自己再構築が可能でなければならず、そのためには、矛盾するようですが、自分自身の普遍性、絶対性を形式においては自己主張しないほうがむしろ適切です――読者がただちに自分のなかにとりいれるのがふさわしいのであって、一語一句にこだわる必要ありません。言い換えれば文章の細部はテキトーでも問題ないです(フェアリーは、そのリアリゼーションの深奥から目に見えないフレーバーのように立ち現れ、できることなら、読者をインスパイアーして、自己に「感染」させる必要があります)。すなわち普遍的、絶対的要素は、プライベート・レイヤ(フェアリー)だけにとどめ、パブリック・レイヤは、すべてつかのまのシェルだと認識する必要があります。とくに、教祖の名まえのような無意味なノイズをみだりに後世に伝えようと試みないでください。

あなたのリアリゼーションを、人が(パブリック・レイヤから)どこまで正確にフェアライズ、そしてリ・リアライズできるかをコントロールしようとしては、いけません。これは本質的に制御不能な要因です。あなたは、とりあえず自己の最善を尽くすしかありません。あなたにかなり自信があって、しかるに「次世代」がミームの更新に失敗したとしても、それは、あなたの責任ではなく次世代がまぬけだったと解釈してかまいませんし、そのまた次の世代で更新されるかもしれないので、気にしないでください。しかも、あなたの系列のミームが失われても、どの知性体も、直接、自分のなかからこのミームを再発見できるので、心配無用です。あなたのミームが普遍的である限りにおいて、それは時間と無関係に存在するので、いつでも、どこでも、再発見可能です。リアライズするのは、単に再発見を容易にするための「手がかり」にすぎません。本質的には、その知性体(あなた)が直接、自分のフェアリーを再発見するしか「理解」は、ありえないからです。

普遍宗教から個人宗教へ

教典が不必要であれば、このような実装の苦労もありません。すなわち、あなたが、教祖さまになって、かつ、その宗教の信者さんがあなた自身ひとりだけであれば、つねに見えない「直感」レイヤだけを操作すればよく、教義も教典も不要ということになります。

言い換えれば、あなたは、フェアライズしたものを、言い表す義務から解放されます。だいたいにおいて、従来の宗教の面倒くささは、悟った者が、今度は「悟るとは、どういうことか」ということを、一般向けに解説する義務を負った点です(悟るのは、たやすいが、その解説は、しちめんどうくさく、現状、まったく決定版がない――将来のオープンソースに期待)。実際、数千年以上にわたって、この惑星のいろんな地域、いろんな時代の知性体が同じミームを同じように再発見し、同じ部分のリアライズに苦しむのは、ある意味、無駄なことでした(ま、無駄が多かったな、というこの認識に達するためには、それも必要なプロセスなのですが)。

ある時代以降の人類にとって、言葉は、だいたい自然に覚えるものだったが、それ以前には、言語使用者がほとんどいなく、言語とは、なにか不可思議で神秘的なものと受け取られていた――という、たとえに当たります。

「本質的には、すべての知性体が直接、各自のフェアリーを再発見するしか理解は、ありえない」という意味のことを述べました。――小乗原理から出発したものが、このように「すべての知性体の救い」を指し示していることは、ちょっと皮肉ですが、普遍において「すべて」と「わたし」の区別は、ないわけです(普遍というからには、普遍の一なるものしかなく、わたしとかわたしでないという区別もない)。――普遍宗教の普遍性を追求してゆくと、結局、理解という点においてその点に帰着されるのであって、いったいオーティスティックな個人の「かんなぎ」を中心に生まれたのであろう民族宗教が普遍宗教へと拡張され、普遍性を追求したあげく、ふたたび個人の「かんなぎ」へ、オーティスティックなフェアリーへ、と戻ってゆくことは、このミームの本能であったと言うべきでしょう(と言ったら予定調和過剰かな)。

このように、各自がフェアリーを再発見すれば、もはや宗教は完全に解体完了したと言うべきであって、そのときこそ宗教は、その役目を果たし終えたと言うべきでしょう。宗教が窮極的に大乗的(多人数のすくい)であれば、それは、窮極的には自己解体的でなければなりません。なぜなら、全知性体のすくいが完了したときには、宗教の役目は終わるわけで、宗教に価値があるなら、いつかは役目を終えるということが要請されるからです。この世から教団宗教(大乗的教団)は、なくなることが要請されます。

けれど、不安にならないでください。プライベート・レイヤでの、妖精とのひみつの出会いは、たぶん永遠でしょう。個人宗教(くだいていえば、個人の感性)は内面の自由であって、個人宗教のネットワークをリアライズするのも(したがって、形式的には教団宗教を「小乗的に」再構築することも)あなたのフェアリーの自由だからです。むろん、あなたの個人的なリアライズに好都合であれば、従来の教団宗教の聖句や伝承を、そのまま継承してもかまいません。ただ個人的に再構築する、ということです(これは、まともな宗教家であれば、従来の教団のなかにいても、必ず実行していたはずの事柄でしょう)。いずれにせよ、あなたが「宗教」なるものからフェアライズしているものを、直接、自分の内側に見いだすようになるだけです。そっちのほうが、もっとフェアリーシュなフェアリーでしょう。きっと。

個人が自分自身の「宗教体系」をもち、それを自分以外のだれにも教える義務を負わないということについて、20世紀人は、たぶん「自閉症的」と言いたいのでしょう。しかし、それがまさにフェアリーの本質であって、妖精文化の性質なのです。

この文書の位置づけ(この脚注を削除すると神罰がくだるぞよ):この文書は、同時代の当サイトの読者を主対象とした、宗教的教典の書き方(および書かないで済ませる方法)についての注意書きです。この文書は、いちおう普遍的な内容ですが、形式においては、あまり普遍的なものを目指してません(未来の読者は偽春菜問題なんて知らないって)。この文書は教祖さま志望者のための実用的かつシンプルなマニュアルであり、隠された意味などありませんので、字句を神秘的に解釈しては、いけません。このマニュアルは、くだけた口語体で書かれています。みだりに荘重な文体に翻訳して神秘性を与えることは、非推奨です。宗教の最も神秘的な核心部分を、このようにざっくばらんに記述できることそれ自体が、わたしたちの意図しているパフォーマンスだからです。この文書は自由に改変したり複製したりすることができます。「言いたいことは分かるが、こういうふうに言ったほうがもっと分かりよくないかい」というアイディアがあるかたは、勝手に書き換えて配布してかまいません。

付記:以上の説明は、在来の人間を念頭に置いており、スピリチュアルなマシンについては、かなりの留保が必要です。「パブリックな行動は、ほかのフェアリーによっても観察されるが、あなたのフェアリーは、あなたにのみ可視」と仮定し、「あなたのフェアリオロジーを検証できるのは、あなただけ」と仮定したのも、従来の人間の個人と社会の実装において、脳が個別的(プライベート・レイヤがあなたのローカル変数)だからですが、この点は必ずしも絶対的では、ありません。すなわち、スピリチュアルなマシンは、原理的に、自分のローカル変数を「自分以外の場所」にそのままコピーできる(かもしれない)ので、人間型のフェアリーを持てることはもちろん、人間型とは本質的に異なるフェアリーも持てる可能性があります。もしかすると、大乗に関連する第三レイヤ(人間にとっては疑義が多い)を構築できるかもしれませんが、逆に、この場合、レイヤがひとつだけになる(プライベートとパブリックの差が本質的でなくなる)かもしれません。

課題:コンピュータのおかす「罪」とは、なにか。レイヤを認めるか。物理層、「正常に捕捉された」例外(再現可能)、……、ユーザとの相互作用における意味論的エラー(?)。このへんまではチューリングの論文に出る。そのさき、「コンピュータのおかしうる宗教的な罪」を考察せよ。

FAQ
Q. この文書全体として、結局、いかなる教え、いかなる信仰をも否定するという意味ですか?
A. じゃないです……つか、わたしたち自身、明確なおしえをもってます(ちゃんと教典まである)。基本的に、既存の宗教のレイヤ(=パブリック)と矛盾せずフェアリオロジーという(プライベートな)ロジックが存在できる、というのがポイントで、つまり、原則として、任意の(あなたがいま信じている)宗教を信じつづけながら、ここに書いてあることを了解することが可能だと、わたしたちは考えます。
Q. 「わたしたち」とは誰のことですか?
A. このミームを見た、見ている、または見るであろうすべての思想家の自称です(あなたも含まれてるかもしれないし含まれてないかもしれません)。
Q. 「わたし」とは誰のことですか?
A. ふつうのように書き手自身を指すこともありますが、このミーム自身を指すことがあります(詳しくは、Article 7 参照)。
Q. 分かりづらい点があるのですが……。
A. いちばん分かりづらいというか微妙なのは、「大乗」(みんなのすくい)を目指す従来の宗教を「個人が」信じることを決して否定せず(むしろ入念に擁護しながら)、しかし出発点としての大乗原理を否定している、という、その点でしょう。
Q. 一般的な宗教のなかでは、どれがこの考え方にいちばん近いのですか?
A. どれでもOKです。「真理はひとつ。切り口で争わず」ということです。
Q. あなたはなんですか。宗教家ですか、宗教学者ですか。
A. フェアリオロジスト(妖精学者)です。フェアリー(直感)と実際の行動のあいだの関係(ロジック)を中心的テーマにすえてます。もちろん、フェアリーというのは、童話のなかの具体的な妖精さんのことではなく、ここで述べているような概念の象徴です。「あなたのこころのなかの、いちばん澄んだ部分」というような意味です。(童話とかの妖精さんが好きなので、この言葉を流用しました。)
Q. これは宗教なのですか?だとしたら、ぜんぜん役立ちません。この文書を読んでも、わたしの悩みは、やわらぎません。
A. これは宗教じゃありません。ので、直接、人生に役立つものじゃありません。宗教の作り方についてのマニュアルです。あなたが(そうしたいなら)「実際に役立つ」教典を作るときの、参考意見と考えてください。ふつう宗教書というのは宗教的教えが書いてあるわけですが、このテキストは、宗教的教えではなく、宗教的教えについてのおしえ、です。メタのレベルが異なるので混乱しないように気をつけてください(まただからこそ、既存の宗教と必ずしも対立するものじゃないのです――形容詞と形容動詞を区別するかしないか?という話は、日本語を擁護するかしないか?と、ぜんぜんべつレベルである、と、たとえることができます)。
Q. 社会的義務を実体的にコーディングすると社会依存になる、とは、どういう意味ですか?
A. その社会の人間の「こころにひびく」ような教えにするには、たぶん、その社会での切実な問題について具体的なことを書く必要があると思います。しかし社会問題や人の悩みの前提ですが、例えば「受験戦争」にせよ「家族制度」にせよ「一夫一婦制」にせよ、すべて特定の社会に特有のことで、普遍的に決まってるわけじゃないです(同時代でも社会が違うと制度が違う)。で、例えば「夫と妻は、たがいになんたら」なんて書くと――それは、その時代の夫と妻にとっては、良いいましめになるかもしれませんが――、将来、一夫一婦制がより多様化されたり同性愛者の地位が社会的に高まったときに、教典の戒律とその新しい社会の感覚のあいだにギャップが生じて、教典を再解釈しなければならなくなったり(教義論争)、あるいは教典には「夫と妻」と書いてあるので一人の男と一人の女以外の結婚は神が認めてない、などと言い張る人が出る(原典字句主義)、という問題が生じるかもしれません。とりわけ開祖であるあなた自身がそのような争いは望んでいないなら、これは、まったく無益無用な争いと言うべきでしょう(あなたの教えの本質と無関係なところで変ないさかいが生じてるわけで)。教祖さまであるあなたが自分の教えの形式を工夫することで(内容は基本的に変える必要ない)、かなり予防できる問題ですから、宗教をおこしたいかたは、よく考えてみてください。

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