1 : 22 魔法を使って停学

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[us]15歳の生徒、魔法を使って停学

2000年10月31日

Parents sue Union over alleged `witch hunt' of daughter (Tulsa World Oct 27): オクラホマ州タルサ - ACLU(アメリカ市民自由連盟)は、信教および言論の自由が侵害されたと声明。

パブリック・スクールに通う15歳の生徒ブランディ・ブラックベア(Brandi Blackbear)さんが、昨年「魔女であり、教師に魔法をかけた」として停学処分になった。市民権が侵害されたとして、ACLUの弁護士が代理人となって提訴、陪審裁判を求めている。

「信じられません。西暦2000年にもなって娘が魔女でないことを弁護するために裁判所に行かなければならないなんて……」とブランディさんの親。

学校側の弁護士 Doug Mann さんは、「まだ裁判所からの出頭命令は来ていませんが、命令が来たら、それなりの対応はいたします」と言っている。

訴えによると、Columbine High School での大量殺人の直後の1999年4月28日、ブランディさんは問題に巻き込まれた。学校側はブランディさんが武器を持っているとのうわさを聞いて、ロッカーやかばんを調べた。武器は見つからなかったが、自作小説が見つかった。スクールバスでの銃撃の話があった。学校側はブランディさんを19日間の停学処分にした。

1999年12月、中学3年生(9年生)のとき、魔法に興味があることでとやかくいわれ、教師に魔法をかけて病気にしただろうと尋問され、ふたたび停学になった。

少女は、自然崇拝を基礎とするウィッカ(Wicca:白魔法)の本を、学校の図書館から借りて読んだことを認めたが、入信したわけでは、ないという。

「まるでセーレムの魔女裁判に逆戻りしたかのようです」ブランディさんの弁護人ジョン・マック・バトラーさんは言う(※セーレムはマサチューセッツの都市。1692年、魔女裁判で「魔女」を火あぶりにした)。

ブランディさんはクリスチャン(カトリック)で、この「告発」を否定したが、学校関係者の「悪意と圧迫」によって、「邪教の本を読んだこと」、「魔女の仲間であること」を告白させられたという。

彼女は、さらに、ペンタグラムを持っていることでも学校当局者につかまったという。てのひらに星形のようなあとがあったのだという。

学校側は、ブランディさんに、「ウィッカに少しでも関係あるようなしるしや道具を身につけないように」と指導した。多くの生徒が、十字架のアクセサリーのようなものを公然と身につけているにもかからわずである。

訴えによると、副校長のチャーリ・ブシヘッド(Charlie Bushyhead)さんは「ブランディさんは、教師に悪い魔法をかけた」と信じ、ブランディさんを15日間の停学処分にした。魔法をかけられたという教師は、のちに病気になって入院したという。

ブランディさんの側の弁護士は、「学校は、ブランディさんの信教の自由、言論の自由、プライバシーなどを侵害した」としている。

ブランディさんは、現在、高校1年生(10年生)に進級している。

「非常にまれなケースです」とACLUの代弁者は述べた。「こういう事例がおおやけになることで、子どもたちの権利を守ることに役立つと考えています」

訴えられたのは、学校とブシヘッド副校長のほか、学校の担当者やカウンセラーなどだが、だれからもこの件でコメントは得られなかった。

同様の訴訟例としては、8月、「教師の生命をおびやかすポエムを書いた」として停学になった生徒を復学させるように裁判所が命令を出したケースがある。ポエムは脅威とは言えず、(表現の自由を保証する)合衆国憲法修正第一条のほうが優先すると判断された。

関連記事:魔術を使ったと、女子高生を停学処分 オクラホマ(CNN.co.jp)

ひとこと

このニュースの本質は、「西暦2000年ごろの学校では、教師が、生徒みんなが同じでなければいけないと盲信していることが多かった」という問題提起でしょう。

キリスト教圏での「魔女」の問題、というと特別な感じがするでしょうが、日本でだって目に見えない「協調性がいちばん大事だ教・みんな仲良くさわやかあいさつ派・談合価格協定なれあい政治を守る会」のうっとうしい信者たちが、おりあらば子どもの個性を根絶やしにしようと、すきをうかがっているので、問題の構造は同じなのです。

非キリスト教圏の日本では「キリスト教は絶対でない」というのは当たり前のことですが、儒教道徳圏の日本で「道徳なんてつねに正しいわけじゃなく、道徳教育には害も多い」と正しく指摘すればアナーキーと思われるかもしれないことから、キリスト教圏におけるキリスト教の「重み」を理解してください。とくには、魔女であることを否定するために「自分はカトリックだ」と「告白」させられる痛ましさを。

いろいろな意味で、自分の価値観だけが絶対だと盲信してるおとなは、多いです。でも、人によって、いろんな考え方、いろんな価値観があるのが当然で、人や物との接し方、興味の方向なんかも、いろいろあっていい。いろいろあったほうがいい。「全員が同じ考え方をしなければいけない」なんていう強制というか洗脳は良くないのに、とくに日本人は「言葉」に弱く個人の意識がもろいことがいろんな過去の事例から明らかなので、太平洋戦争の反省もふまえ、こういうニュースをかみしめると良いかもしれません。

「言葉」に弱いというのは、キリスト教圏なら「異端」、日本社会なら「非国民」とか「非協調的」とか「自分勝手」といった言葉を、分析的にでなく、盲信的に使っていること。「自分勝手」って、具体的には、どういうことなのだろう。「自分勝手! 少しは人のことも考えなさいよ〜」と言って「わたしの利益も考えて〜」とうるさくすがる相手は「自分勝手」でないのだろうか。

自分の考え方だけが絶対だと思う人々は、「異端者」が「多数派」(というのも勝手な思いこみだったりするのだが)と違うことをしたり、自分たちの習慣に従わないと、「自己中心的」だの「協調性がない」だの「社会のルールを守れない」だの、ごたくをならべますが、あと数十年もすれば、頭のかたい連中は自動的に死に絶え、地球は、いま若者である我々のものになるので、あほなできごとがあっても微苦笑しながら、だまって待ってれば良いのかもしれません。

変わるべきものは変わるべき

いろいろな意味で社会の構造が変化してるのだから、古いしきたりは、いつまでも通用しません。時代が変わっても変わりにくい部分もありますが、変わるべき部分もあります。例えば、現在の社会の段階だと、書道やそろばん(昔は必須教養だった)より、キーボード入力が必要でしょう。電話が発明される前には、もちろん「電話のマナー」なんてなかった。それと同じこと。時代が変われば、新しいルールが自然とできてくわけで、昔のルールだけが絶対じゃないし、昔のルールで新しい文明をうまくコントロールできるわけもない。

昔と違うのが悪ければ、平安時代の習慣にでも従って生きれば良いのだろうか。「最近の日本語の乱れ」がどうこう言う人の言葉だって、江戸時代の人からみれば乱れまくってるだろう。

キリスト教も、永遠の権威では、あり得ない。信じる自由は認めつつ、ほかのことを信じる自由も認めてもらわねばならない。

日本の国教ともいうべき、いわゆる「道徳」も永遠の宗教でなく、いつまでも金科玉条(きんかぎょくじょう)にできるとは限らない。新しい世代は、自分たちで自分たちの時代のルールを模索してゆくことになるだろう。

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