1 : 23 モルドバ共和国 メモ

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ようこそモルドバへ

2000年11月5日

モルドバ(Moldova)は旧ソ連の一部でしたが、ソ連が崩壊して独立国になりました。というわけで新しい国。同じく旧ソ連から分かれたウクライナに「コ」の字型に囲まれてます。ルーマニアとウクライナに、はさまれて、押しつぶされそうな、かっこう。

モルドバは東欧の国。黒海の上のあたりです。

人口の半分以上はルーマニア系なので、基本的にはルーマニアのきょうだいのような国ですが、スラブ系の住民も3割くらいいます。モルドバ語は、ルーマニア語とほとんど同じですが、旧ソ連時代の影響を受けています。フィンランドのことに詳しい人になら、「ちょうどフィンランドとエストニアの関係」といえば、分かりやすいかもしれません。

国土の大半は標高200m以下の丘や草原(ステップ)で、アナグマ、テンなど、いろいろな動物が住んでいるそうです。人口は約500万人で、あまり都市に集中せず、散らばって住んでます。

緑に囲まれた首都キシニョフ(キシナウ)

首都キシナウ(キシニョフ)の人口は約70万。ルーマニアの地方都市のような感じだそうです(といってもフィンランドの首都ヘルシンキより人口が多いですね)。

驚くほど緑の多い、たいへん美しい町だそうです。東欧というと、ポーランドあたりの北国のイメージもありますが、モルドバは黒海のあたり、緯度的にはイタリアと同じですから、日差しも強く温暖で、緑が濃いのだと思います。

桜井 正徳(まさのり)さんは、「これまで行った国の記録」のなかで、キシニョフを「ぶどうの街」と呼んでいます。

ところで、モルドバの首都は日本では「キシニョフ」と呼ばれることが多いようです。これは、たぶんロシア語ふうの発音で、旧ソ連時代のなごりでしょう。ルーマニア語(モルドバ語)では、キシナウ(Chisinau:正確には、sにセディーユ、aの上にv型のアクセントがつきます)。なお、「キシニョフ」はラテン文字では Kishinev 、ロシア語を知らないとこの綴りでどうして「キシニョフ」なのか理解に苦しむかもしれませんが、ロシア文字のё(イョ)をeで写しているわけです。

ぶどうとワイン

モルドバは農業国で、ぶどうの栽培がさかん。工業としても、ワイン製造がさかんです。

モルドバは、ぶどうの国

ちなみに、農業国という点でも、ルーマニアのほうと共通しています。となりのウクライナは工業国ですから。

ロシアとルーマニアの抗争の地

現在、モルドバと呼ばれている地域は、古くからロシアとルーマニアが奪いあい、複雑な歴史をたどりました。住民の数のうえではルーマニア文化圏で、ソ連邦解体後はルーマニアとの合併を望む動きもあります。

ルーマニア国旗は、青黄赤の三色旗    モルドバ国旗は、ルーマニア国旗の中央に紋章を加えたもの

左はルーマニアの国旗、右がモルドバの国旗。中央の紋章をのぞけばまったく同じで、明らかに、ルーマニアへの親近性を表現しています。

モルドバはルーマニアとウクライナの間にある

しかし、モルドバ東部(ウクライナ国境付近)にはスラブ系住民が多く、ここはロシア文化圏、ロシア語圏になっていて、ルーマニア化に反対しています。東部住民の約半分がスラブ系(ウクライナ人とロシア人)で、東部ではルーマニア系住民よりスラブ系住民が多いくらいです。

内戦と「トランス・ドニエストル」

上記のルーマニア系住民とスラブ系住民の対立が激しくなったのは1990年前後。1991年にモルドバが旧ソ連邦からの独立を宣言したとき、モルドバ内のスラブ系住民の多い地域も「トランス・ドニエストル共和国」として、モルドバからの分離独立を宣言しました。争いの直接の原因は、公用語をルーマニア語にする動きに対する、ロシア語圏の住民の反発だったようです。なお、Transdniestr というのは、この地域が(ルーマニア系住民地域からみて)ドニエストル川の向こう岸だからです。日本では「沿ドニエストル共和国」とも訳されます。

1992年、モルドバのスネグル大統領が分離独立派に対する武力行使を認めると、分離独立派(スラブ系の住民)はロシア軍の支援を受け、紛争が拡大しました。内戦は終結し、「トランス・ドニエストル」は、いちおうモルドバの一部ということになったものの、自治を認められ、事実上、独立国に近い感じです。モルドバと「トランス・ドニエストル」のあいだには、「国境」があって、トランスドニエストルには独自の軍隊もあるそうです。

これも、かつて旧ソ連がルーマニア文化圏の一部を無理やり併合したことによるひずみと言えると思います。ソ連が崩壊したとたん、かつてソ連が無理やり併合したり、無理やり影響を及ぼしていた東欧諸国で、似たような民族紛争が起きています。

なお、モルドバ南部の「ガガウジア」地区でも、少数民族による大幅な自治が認められています。

関連リンク

モルドヴァ共和国(日本・外務省)|Moldova(CIA)|モルドバ・情報リソース(スラブ研究センター)|Republic of MoldovaMoldova on the Net|モルドバの子ども:The Face of Moldova Photo Gallery|キシニョフの風景:Virtual Kishinev|ぶどう:Белые сорта Траминер

参考資料――Romania & Moldova (lonely planet)


民族紛争が起きるまで

2000年11月6日

強大な国が、弱小地域に対して積極的な干渉を行うことを帝国主義という。「先進国」が「前近代的な国」に対して「女性差別をなくしなさ〜い」だの「大統領は普通選挙で選びなさ〜い」だの指図して「なぜならそれが正しいからでーす」とふんぞり返るのが、その例である。

アメリカ合衆国は、しばしば「民族の独立を助ける」とか「人権侵害をなくす」といった思想にもとづき、他国に干渉する。「人々が悪い政権によって人権侵害を受けていて、かわいそうだから、助けてあげる。経済への自由を与える」といったロジックだ。また、旧ソ連邦は、しばしば「共産化を助ける」とか「搾取(さくしゅ)をなくす」といった思想にもとづき、他国に干渉した。「人々が独占資本家の横暴によって苦しめられていて、かわいそうだから、助けてあげる。搾取からの自由を与える」というロジックだった。

日本はアメリカ文化圏なので、多くの日本人にとって、アメリカの思想は、ある程度まで正論に聞こえ、旧ソ連の思想は、むしろ間違っていたように聞こえるかもしれないが、どちらのロジックも本質的には同じようなもの。要するに、自分が信じる正しさを、自分以外にどこまで押しつけられるか、といった問題だろう。

また、「正しい」ことを口実にして、実際には「あまり好ましくない」干渉を行うことも多い。もちろん「正しい」「正しくない」「好ましい」「好ましくない」というのは、人間のイメージにすぎず、超然とした基準があるわけでは、ない。時代が変われば歴史の評価も変わりうる。

ともかく、旧ソ連の膨張、近隣諸国への干渉というのは、少なくともたてまえとしては、しいたげられた労働者を解放して、人間的な理想の社会を建設するという考え方によっていた(実際には、旧ロシアの「単なる帝国主義」と見分けにくい面も多い)。アメリカは「自由経済を守るため」なら軍事介入もするが、旧ソ連は「共産主義を守るため」には軍事介入もした。どちらも同じようなロジックだし、それぞれの支配が及んでいるうちは、あまり不満も出ない。アメリカの文化侵略を受ければ、その地域の学校では一貫して「自由主義経済は正しい」と洗脳するだろうし、ソ連の文化侵略を受ければ、その地域の学校では一貫して「社会主義経済は正しい」と洗脳するだろう。実際には、どちらの経済システムも一長一短だろうが……。

それはともかくとして、強国の干渉があまりに急激に消滅した場合、消滅したのが迷惑な干渉である場合でさえ、干渉されていた側には、いろいろ混乱が生じやすいようだ。単純化していうと、無理やりおさえつけていた場合、おさえつける力が急に消滅すると、反動で過激な運動が生じたりする……この事情を、モルドバを例にとって、もう少し具体的に、詳しく観察してみよう。

スラブ系住民の優越感

1940年ごろ、ソ連軍は、ルーマニア系住民の多い土地を占領、「モルダビア・ソビエト社会主義共和国」としてソビエト連邦に編入した。今のモルドバだ。このときソ連内の国境線も一部変更して、前からソ連領だったトランス・ドニエストル地域(スラブ系住民が多い)をこの新共和国に加えた……これが、50年後の紛争の舞台となる。

ソ連は、ルーマニア系住民の文化をあまり尊重せず、「ソ連の文化のほうが正しいのだから」という潜在意識があってのことだろうが、例えば、ルーマニア系住民の母語であるルーマニア語――もともとラテン文字で書いていた――をロシア文字で書くように強制した。「なんたる横暴」と思うかもしれないが、ルーマニア語自体を禁止したわけではない(同時期、日本は、韓国で韓国語の使用を禁止、日本語を強制している)。また、現在、欧米が女性の服装や地位のことで回教圏に「われわれの文化のほうが正しいのだから」と押しつけている事柄があるが、回教圏の古来からの文化の慣習を尊重せずに形だけ無理やり「改革」すると、あとでどうなるか?というのも似た問題だ。

前からロシア文字を使っていたスラブ系住民は、エリート意識を持ったかもしれない。ルーマニア語なんていうのは土着の田舎者の言葉で、ロシア語やウクライナ語のほうが重要な言語なのだ、と感じたかもしれない。……このようなスラブ系住民の優越感は、あるいはナチズムにおけるゲルマン民族の選民意識を連想させるかもしれないが、まぁ、日本人だって、ある日とつぜん日本語が世界共通語になったら日本語がへたな諸国民に対してひそかな優越感をいだくかもしれない。

他方、ルーマニア系住民だって、それ以降は、生まれたときからロシア文字でルーマニア語を書き(いわゆるモルドバ語)、生まれたときからソ連文化の規範を常識として半世紀がたっている。ソ連が崩壊したからルーマニア人に戻りましょうといって簡単に戻れるものでもない。50年のうちには、ルーマニア系とスラブ系のあいだに恋もめばえて、そういう家庭もできているでしょうし……。逆説的だけれど、ソ連が崩壊せずにあと300年もたっていたら、この国の人々は「モルドバ人」としてのアイデンティティを確立させて、平和に独自の文化を築いていたでしょう。

しかし、とにかくソ連は崩壊し、モルドバは独立国となった。そして何が起こったか?

モルドバはルーマニアとウクライナの間にある

急激な変化への二種類の反応

一方では単純に喜ぶ人々も多かっただろう。ルーマニア人として育ったのに、途中からソ連の文化を押しつけられた世代(今60歳以上)には、そういう人も多かったと思う。しかし、初めからソ連文化のなかで育った人、とくにそれが当たり前と思っていた罪のないスラブ系住民は、とまどったに違いない。自分は当たり前のようにロシア語を母語としているのに、これからは、この国の公用語はルーマニア語に「戻す」、などと言われたらショックだろう。

一方では「急進的改革歓迎派」がおり、他方では「改革断固反対」の人々がおり、多くの人々は、これら両極端のあいだの、さまざまなスペクトルに位置したであろう。

もっとも、ソ連の崩壊やそれにつづく変化というのも、ある日とつぜん起きたわけでは、なかった。ソ連時代末期にはペレストロイカと呼ばれる一連の大胆な変革があったことは有名だが、モルドバでも1988年以降、自由化を求める集会がひらかれているそうだ。だからこそ、ソ連の崩壊、モルドバの独立を「渇望」していた急進派や、それに対する強硬な反対派が育っていたとも言える。

価値観の逆転:「少数民族」になったロシア人

ソ連邦時代にモルドバに移住したロシア人は、当時としては、田舎に引っ越してきたエリート都会人という意識を持ち得たかもしれないが、今となっては、ロシアと切り離された新独立国モルドバのなかで「少数民族」になってしまった。ソ連全体ではルーマニア系が明らかに少数民族だったことを考えると、皮肉な展開だ。

ルーマニア系住民のなかには、スラブ系住民に対して、一転して差別的(攻撃的)な態度をとったり、それに近い心理状態になる者が多かったと思われる。ソ連時代、スラブ系住民は、なんとなく自分たちのほうが偉いと感じていたろうから、ルーマニア系住民にしてみれば、無意識のうちにうらみがたまっていたかもしれない。

今やモルドバ議会の議席の大半を占めているのはルーマニア系住民だし、潜在的にスラブ系住民への反感も強い。スラブ系の人々は、「このままでは、どうなるか分からない」と、漠然とした危機感をつのらせたであろう。

また、ソ連時代には、それなりの秩序を保っていたガガウズ人(モルドバ内の少数民族)にしても、「モルドバは、われわれルーマニア人のものだ」という急進派の勢いにまかせると、自分たちの文化が踏みにじられるおそれがあったろう。

表面だけみれば「ルーマニア系住民がソ連の支配から解放されて自由を得た」のだけれど、このように少しほりさげて観察すると、「宿敵ソ連を倒してナショナリズムに燃えている」とでもいった危険なきざしがあったことが分かる。ルーマニア系住民がしようとしているのは、まさにかつてソ連がルーマニア系住民に対してしたこと――多数派の文化の押しつけ――であった。ソ連は、ルーマニア系住民の意向にかまわず、モルドバを無理やりソ連に編入してしまったが、いま、ルーマニア系住民は、モルドバのルーマニアへの併合を望んでいた――スラブ系住民の意向にかまわずに。そして、ソ連が住民にソ連文化を押しつけたように、急進派は、いま、全モルドバ人にルーマニア文化を押しつけかねない勢いだった。

第三の要素「マスコミ」

初めに指摘したように、一般のモルドバ人(とくに50歳以下)には、必ずしも激しく争う理由は、なかった。実質的に生まれたときから「モルドバ文化」のなかで育ってきたのだから、「ルーマニア文化を取り戻せ」と騒ぐほどのこともなかったであろう。対立は、当初、政治家や一部の運動団体のあいだのものだったようだ。

しかし、相手を倒したい両陣営(ルーマニア文化への急進改革派と、改革断固阻止派)は、それぞれに、マスコミを利用して宣伝を行った。日本でもそうだが、マスコミというのは、「こんなひどいことがあった!」「こんなことが許されていいのかっ」といった扇情的なニュースを大見出しで激しく書き立てる一方、「このような友好の試みがあります」といった良いニュースは、あまり大見出しで伝えてくれない。潜在的に、情報の受け手の側も、扇情的なネタを望んでいるということになる。

きっと「そんな対立は良くない。各民族の文化をそれぞれに尊重できる国を作ってゆきましょう」と訴える人々も多かったはずだが、他方において、マスコミの扇動によって、両極端の2陣営のいずれかに巻き込まれた人々もいただろう。

ソ連が滅びても滅びない価値観――ないし既得権

とくにトランス・ドニエストル地域の住民(スラブ系が多い)は、かつてのソ連型の社会経済システムが結局、良かったと考え、ソ連自体が崩壊してもなお、そのシステムを維持しようとしている。旧ソ連圏では、自由経済への移行で貧困やさまざまな問題が続出しているのだから、かつてのシステムのほうがそれなりに良かったと考えるのも、もっともなことだが、実際には、旧ソ連体制下で権益を持っていた企業などが先頭に立って「改革」に反対したようだ。日本でも、NTTは民営化をいやがったし、郵政省は民営化して自由競争に入ることを避けるために、あれこれ立ち回っている。

このような人々が中心となって、トランス・ドニエストルでは、変革反対の組織ができていった。モルドバがソ連からの独立を宣言すると、モルドバ内のトランス・ドニエストル地域もモルドバからの分離独立を宣言した(ある意味、「あなたがたは独立しても、わたしたちは独立せずにソ連に残ります」という逆独立宣言――そしてこれは、ソ連のペレステロイカ路線からみてもある意味、反体制なのだ)。トランス・ドニエストルは「独立国」として、独自の警察や軍隊を整備した。さらに、トランス・ドニエストル地域の住民は、モルドバの大統領選挙をボイコット、かわりに「トランス・ドニエストルの大統領選挙」を実施した。

そして武力衝突が起きた

もはや歴史的経緯からの何となくのムード的対立でなく、はっきりと目に見える対立となった。トランス・ドニエストル地域の全住民が望んでいたわけでは決してないが、自分たちの(事実上の)政府が戦うと決めた以上、さからいにくかったであろう――とりわけソ連文化の文脈では。トランス・ドニエストル自治政府は、同地域内にあるモルドバの行政施設を撤収させ、自分たちの独自の「政府」機関で置き換えようとした。例えば、モルドバの警察署にトランス・ドニエストルの警官が行って、「君たちは、ここから出てゆけ。ここの警察権は、われわれがもらう」と言えば、もはや一触即発の状態だ。モルドバの警察官からみれば、「民間人が警察署を乗っ取ろうとしている」わけだから逆に相手を逮捕するのが正義だろうし、トランス・ドニエストルの独自の警察官からみれば、「不当にいすわる外国の警察を追い出す」のが正義ということになる(在日米軍基地に対する周辺住民等の反感に似ているかもしれない)。実際、このあたりから実力行使の武力衝突が始まったらしい。

以上が「民族紛争が起きるまで」であって、あとは「内戦の歴史」、いかにこじれ、いかにおりあいをつけたか、という話になる。それは、またべつの機会にゆずろう。

結び

いずれにせよ、これは、モルドバというあまり耳慣れない地域のどうでもいいような話にみえながら、本質的な観察をすると、歴史上ありがちな普遍的要素がいろいろとつまって、日本人としても身につまされる部分が多いことが分かる。

ところで、モルドバで生まれ育った若い世代に「やっぱりルーマニア文化のほうがいいよね」と言っても、ピンと来ないはずだ。親から「ルーマニア文化は素晴らしいのだ」と偏向的な教育を受けない限り。モルドバの若い世代が作っているウェブサイトを見ると、ロシア語でもルーマニア語でもなく英語で書いている人がけっこう多い。対立をあおらないという意味もあるだろうが、おとなたちのわけの分からない争いにうんざりしているというか、かかわりたくない、自分たちはルーマニア人でもスラブ人でもなく「モルドバ人」なのだ、というニュアンスもあるように思う。若い世代は若い世代で、古いいさかいを乗り越えて、新しい自分たちの価値観を作ってゆく。

余談だが、ルーマニアでは同性愛が違法らしいが、モルドバには、そんな古くさい法律は、ない。モルドバ文化は、その「親」であるルーマニア文化より「進んでいる」のだ――それこそが、まさに「子」の強みだろう。

モルドバにおいて旧ソ連時代の文化が一般に「古くさい前時代のもの」と考えられるのは当たり前だが、「ルーマニア、ルーマニア」と叫ぶ急進派および内戦のせいで、「ルーマニア文化」もほめ殺されたかもしれない。若いモルドバ人は、必要以上にアメリカ文化を崇拝しているようだ――これも、間接的な、内戦の傷あとと言える。ロシアとルーマニアという二大ルーツの意義が揺らぎ、文化的アイデンティティが混乱した世代は、しかし、なんらかの「文化」にすがりたいのだろう。自分たちの価値観、世界観を確立するまでのあいだは。

参考資料――MOLDOVAN / TRANSDNIESTRIAN CONFLICT

メール: ごく普通のモルドバの若者から

2000年12月

I'm glad that you are interested in Moldova it is very rare for people from the West and the East to have such interests.

(モルドバに興味を持ってもらえてうれしいです。西洋でも東洋でも、モルドバに興味を持つ人は本当に少ないですから)

Well the net is a very good solution for comunication and it makes the world smaller.Here in Moldova we strugle to get out of misery we are currently in and the process is taking far too long.The system is so corrupt that you are nothing without your relations(not the money).

(ネットはコミュニケーションの良い手段ですね。世界を身近にしてくれます。ここモルドバでは、今の苦境から脱出しようと、みな必死です。でも、本当に、あまりにも時間がかかっています。社会システムは、とほうもなく腐敗しており、コネがないと何にもできません――カネじゃなくてコネが必要です)

How about over there,in East Asia? The only thing I know about people from over there is that the are very industrious.Is it true that adults in Japan have only like a week in a year for holidays?Here some people have a all year round holiday.

(東アジアのそちらでは、どうですか。そちらの人々について自分が知ってることといったら、とても勤勉だ、ということだけです。日本のおとなは、一年に一週間とかしか休みがないって、本当ですか。こっちでは一年中、休みの人もいます。)

You are probably right about the will of young Moldovans to have their own identity.For you to understand I'll tell you this:Moldova is an artificial made republic from 1812 it passed to Russian Empire as a result of Russian-Turkish war and since then there were debates to whom it belongs and romanian population from here was in a vast majority assimilated,so it became a partial russian,ukranian,romanian.

(モルドバの若者が自分自身のアイデンティティを望んでるっていうのは、その通りかもしれません。少し説明しますと――モルドバは、人工的に作られた共和国です。ロシア・トルコ戦争の結果、1812年以降、ロシア領になりましたが、それ以降、「モルドバはだれのものか」がずっと問題でした。ルーマニア系の住民の大部分は(ロシア文化に)同化されたので、モルドバというものは部分的にはロシアでもあり、ウクライナでもあり、ルーマニアでもあるという結果になりました)



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