フェアリーランド

4 夢の中から届いた手紙

突然おとずれた夏の空白。アスファルトの上の空き缶が風に吹かれて転がって ゆくような、からからと鳴る日々。

むなしい気分でした。わたしは有馬に別の答を期待していたのです――「あれ は一時の衝動だった、魔がさしたのだ、悪かったと思っている」というような言 葉を。それなのに彼は、むしろ衝動に身をまかせたことこそ自分の真実だった、 とひらきなおるのです。男なら、実行するか否かはともかく、みなそういう同じ 衝動を持っているのだ、それが現実だ……と。たしかにそれが現実なのでしょう。 そのことは、わたしもある程度、本やマンガから得た知識で知っていました。け れど、男と女の結びつきが結局そういうものなのだ、ということは、たとえ事実 だとしても、わたしには受け入れがたいことだったのです。

その日から世界の見え方が変わってしまいました。町を歩いていれば、たくさ んの大人の男女がいます。このひとりひとりがみな陰ではそういうことをして楽 しんでいるのだと想像すると、世界が信じられないような、自分には世界に入っ ていけないような、ぞっとするような幻滅を感じて。陰ではそういうことをして いながら、澄ました顔で上品な会話をしている奥さんたち。現実というのは、嘘 で塗りかためられたもの。白く塗った墓のようなもの。そんな気がしてしまいま す。

そんな気分に輪をかけたのは、母のことでした。わたしは、ときどき母が濃い 化粧をしていそいそと出かけることに気づいていました。娘はそういうことには 敏感なのです。まだ三十なのだし、未婚なのだから、なにをするのも本人の自由 だとは思うけど、母の唇の上でいやらしく光る口紅を見ると、ぞっとしてしまい ます。だいたい、十六歳で妊娠して、未婚の母になるなんて……。わたし自身、 もうすぐ十四、来年には十五という年になってみると、自分の母親というものが 分からなくなってきます。去年の冬にとつぜん母が編み物に興味を持ち始めたと きはとくになんとも思いませんでしたが、どうやら、次の冬を目指して、1年が かりでセーターを編みあげる一大プロジェクトが進行中のもよう。初心者がいき なりセーターとは大胆不敵です。完成途上の愛のニットは、母自身やわたしが着 るにしては色も地味だしどうも肩幅が大きすぎるみたい。わたしのなかに母が知 らないドラマがあるように、母のなかにも、わたしの知らないドラマがあるので しょう。



夜勤とやらで母がいない晩、わたしはまた自分の部屋に閉じこもり、ミカに宛 てた架空の手紙を書いていました。

〈北原ミカさま

天使のような友達が、教えてくれました。「好き」というのは、肉体の欲求で はなく、心の直感なのだそうです。本当の恋愛は、相手の幸せを願う気持ちなの だそうです。

その人は、わたしのことを好きだといいます。わたしを運命の人だと感じてい るというのです。

でも……。わたしの方では、その人に対して、運命を感じない。優しい、いい 人だとは思うけど。

ミカさん。わたし、もしかして、あなたが運命の人なんじゃないかって思うの。 初めてあなたを見たときから、いつも、ふしぎなときめきを感じていた菜美なの よ。

あなただって……家族の顔も覚えられないのに、菜美のことは覚えていてくだ さったんでしょう? わたしたちは、きっと、運命の赤い糸で結ばれているんだ わ☆

愛しています。

あなたを。あなただけを〉

……書いているうちに、さすがに少々気恥ずかしくなってきましたが、でも、 どうせ実際に出す手紙ではないのだから、いいのです。心のなかだけの恋愛。き れいなお話の世界。そんな世界を、透きとおったガラスのように、自分のまわり に張りめぐらしておきたかったのです。

8月のいちばん暑いころでした。太陽の光には、もう、ひところのような新鮮 な輝かしさはありません。熟れすぎた果実のような、ぶよぶよの太陽。もの狂お しい蝉しぐれ。ベランダの排水溝に、乾いた蝉の死骸が、白くなって転がってい ます。

生田広志から残暑見舞のハガキが届きました。打ち上げ花火と風鈴の絵が印刷 された涼しげなハガキに、黒いボールペンで、筆圧のかかった、潰れたような小 さな字が書いてありました。

〈有馬のいった言葉は真実です。ぼくは自分のやっていることを考えると自己嫌 悪におちいってしまいます。有馬はまっすぐで純粋、ぼくは嘘つきで不純です〉

なんだか妙な手紙でした。なんのことをいっているのでしょう。彼がそんなこ とをいうのを聞くと、わけもなく、悲しくなってしまいます。

翌日、封書で返事を出しました。

〈生田広志君へ

生田君は、本当はとても誠実で純粋な、いい人だと思います。

あの日、わたしは、あなたの言葉に感動しました。

でも、生田君のいった直感=c…あなたのことはいい人と思ってます。そう としか思えないのが、申し訳ないです。

これからも、良い友達でいてください。

24日(登校日)には元気に会おうぜぃ!

春川菜美より〉



手紙をポストに落としたとたん、不意に、ため息がもれました。

世界でひとりぼっちだったのです。男子はみんな、「だけど現実は」と冷めた 笑いを浮かべます。母も、現実とやらの交わりをエンジョイしているもよう。悲 しいことに、心を割って話せる同性の友達もいなかったのです。昔から、友達を 作ることを無意識のうちに避けていた。クラスメートが自然に発散する「まある い」感じ――お父さんとお母さんのいる幸せな家庭のにおいが、いたたまれなく て。まわりの人はみな「まるい」けれど、自分は「半円」。お互い疲れてしまう。 半円の切り口が、痛ましいほど研ぎすまされていて、円い人たちを傷つけてしま う。

有馬がいてくれたら、ほかにはだれもいらないって、ずっと思ってた。そう信 じてた。でも、その有馬も、今はおかしくなってしまった。仕方のないこと。も う花冠を編んだ時には戻れない。みんなそれぞれの時間に区分けされてしまった のだから。

例によって、またミカに宛てて架空の手紙を書くことにしました。心のなかの 恋人へ。

ところが、その日は机に向ったとたん、いつもと違う妖しい気分になったので す。ほんの数時間前に生田あての手紙を投函したせいでしょうか。封筒に宛名を かく感覚や切手を貼る感覚が、まだ体に残っていたのかもしれません。ふと、ミ カにも1通くらい本当に手紙を出してもいいのでは? という、そんな気がして。 だって、わたしたちは実際にちょっとした知りあいなのですし、日本には残暑見 舞という風習だってあるのです。手紙を書いてはいけない理由なんて全然ありま せん。そう思いつくと、とたんに、わくわくしてきました。さっきの憂鬱が嘘の ような、新鮮な、張りつめた気分になれたのです。

架空の手紙はすらすら書けたわたしですが、本物の手紙は、なかなかうまく書 けませんでした。何度も何度も書いては消しの繰り返し。ようやく「これでいい」 というのができたときには、もう夜中の2時でした。いっけんたわいもない内容 ですが、これでも考えに考え抜いた文面です。レポート用紙に、青いボールペン で清書しました。

〈北原ミカくんへ

お元気ですか?

このごろ、とても、寂しくて……

だから、あなたに手紙を書きたくなりました。

いつも、リーサさんと、いっしょにいるでしょ?

わたしは、ものすごーくやきもちやきだから、なんだかくやしくて……。

わたし、とってもあなたを尊敬してるんだ。やさしいし、数学の天才だし、そ れに目がきれいだし。

今日はこれだけ。

くだらないおしゃべりでごめんネ。

春川菜美より〉



片側通行止めになっていました。夏休み中の登校日。通学路の国道で、事故が あったのです。豚を運ぶトラックの片方の車輪が水道工事の穴にはまり、その衝 撃で荷台の柵がはずれて。転げ落ちた豚たちはそのまま道を横切って、てんでに 逃げていったとか。それをみなで大騒ぎして、つかまえていたのです。数匹は、 たまたまうしろを走っていたダンプカーに轢かれてしまいました。

2時間ほどして、学校の帰りに通りかかると、ちょうど事故処理のさいちゅう でした。むし暑いじめじめした日で、あたりには生臭いにおいが立ちこめていま す。肘まである長いゴム手袋をはめた太ったおばさんが、飛び散った豚のはらわ たをせっせとスコップですくい上げ、大きなポリバケツに捨てていました。レバ ー肉のようなぷるぷるした巨大な臓物が道いっぱいに散らばっていて、集めても 集めてもなくなりません。神経が過敏になっていたので、スコップがアスファル トをこする「ゾゾゾゾゾ」という音がひどく耳ざわりに感じられました。

水道工事のみぞには、どろっとした黒い血がたまっていました。小学校も登校 日だったのでしょう、赤いランドセルを背負った女の子が、蒼ざめた顔をして、 みぞのなかをのぞきこんでいました。

そんなところを通りがかっていやな気分になって帰ったら、郵便受けに、若草 色のきれいな封筒が入っていたのです。子供っぽい柔らかな筆跡で「春川菜美様」 とあります。すてきな予感を覚えながら裏返すと、そこには「北原ミカ」の名が ありました。手紙の返事が来たのです! 風船がふくらむように、全身がワクワ クとドキドキでいっぱいになりました。

大急ぎで自分の部屋に戻り、机のなかをかきまわして、はさみを探して。心臓 がドキドキドキドキしていました。震えながら封を切ると、中にはエアメールで 使うような薄手の便箋が、1枚だけ。夢と現実が地続きになったようなふしぎな 気分になりながら、おそるおそるその手紙を読み始めたのです。

〈カムフェアリ 一九九三年八月二十三日

菜美さんへ No.1

手紙をどうもありがとう。ミカはとっても喜びました。ここ数か月でいちばん ドキドキするできごとでした。

雨があがったところです。庭に出ると、くものすに、水滴がいっぱい、透明な ビーズのように並んでくっついています。

くものすを見ると、ふるさとの天文台のことを思い出します。ミカのおじいさ んは、くもの糸を使って星の動きを調べる仕事をしていました。人間さんのため に時間が正しく進むようにするためです。1秒の単位は伸び縮みするのじゃ、と いつもいいました。

菜美さんは星が好きですか。今の季節、宵の南の空に、さそり座やいて座が見 えます。いて座はダイヤモンドのような星がいっぱいあって、ゴージャスですね。 南の国にいることを実感します。フィンランドからは、これらの星座はよく見え ないのです。ミカにとっては、エキゾチックな星たちです。

北原ミカ〉

読み進むにつれて、心のなかに甘い蜜のようなものがこみあげてきました。〈 ミカはとっても喜びました。ここ数か月でいちばんドキドキするできごとでした ……〉わたしから手紙をもらって、ドキドキしてくれただなんて。わたしもドキ ドキしてしまいます。

とりわけ嬉しかったのは、初めの〈No.1〉というところです。びんせんは1 枚きりなのにNo.1と書いてある。ということは、これは手紙の番号なのでしょ う。No.1ということはNo.2もNo.3もあるのでしょう。ミカはずっと手紙のや りとりを続けるつもりなのです。ずっと、ずっと……。

どきどき浮き浮きと、胸のなかに弾むボールがあるような、口元に勝手に笑み が込み上げてくるような、大声で叫びたいような、走りだしたいような、スキッ プしたいような、くるくるまわりたいような、うっとりと甘美な気持ち。何度も 何度も読み返しました。嬉しくて夜も眠れないほどです。真珠色の夜明け。ばら 色の朝焼け。枕に頬を寄せて、甘い甘いため息をつきました。

すぐに返事を書いたことはいうまでもありません。彼にならって、書きだしは 〈ミカさんへ No.2〉としました。

〈一九九三年八月二十四日

ミカさんへ No.2

すてきなお返事がいただけて、夢のようです。まるで、夢のなかから、空想の 世界から、手紙の返事がきたみたい……。なぜそう思うかは、いつかお話ししま すネ。

ああ! ドキドキして、手も震えてしまいます。こんな気持ちになったのは、 生まれて初めてです。

菜美も星は好きです。

前から好きでした。

初めて見たときから。

人間の魂は、星と似ていると思いませんか。無限の孤独のなかで、離れ離れに 散らばっているのです。

地球の上では、数十億の星々が、寂しくまたたいています。菜美もそのなかの 小さなひとつの星です。

星はいっぱいあるけれど、一生のうち、本当の意味で出会える相手は、数える ほどしかいません。ふたつの星がほんの一瞬すれ違い、またたきを交わし、ふた たび無限のかなたへと去ってゆくのです。

百万光年の孤独のなかで思いがけずふるさとの人と出会ったように、菜美の心 はおどっています。

恋は人を詩人にするとすれば、菜美は今、ミカさんの前において、詩人なので す。

ミカさんの好きなものはなんですか。

それから、人間さんのために時間が正しく進むようにする仕事というのは、な んのことでしょうか。詳しく教えてください。

春川菜美より〉

またすぐに返事が来ました。

〈カムフェアリ 一九九三年八月二十六日

菜美さんへ No.2

ふだん人間さんが使う時間は、地球の自転と関係があるのです。地球がまわれ ば、そこから見える風景である星座もまわります。星座を観測して、地球のまわ りぐあいを精密に調べます。

地球の自転は、厳密にいえば速くなったり遅くなったりします。季節によって 大気の状態や地球上の水の分布が変わりますし、火山が大爆発すれば当然、地球 の自転にも影響します。だから1秒の単位が伸び縮みしたのです。

おじいさんはミカがうるさくすると、「ぴょんぴょん跳ねるな、静かに歩け、 地球の自転が狂う」とおこりました。

今はリーサがおこります。ミカが物にぶつかるからです。物というのは意外な ところにおばけのように出っぱっているので困ります。世界から物がなくなれば いいと思いませんか。そうすれば、ぶつからずに済むからです。

きのうも、陶器のオルゴールを落として、こわしてしまいました。ギリシャ神 話のホーライ(季節の女神)たちが、サティーのジムノペティーにあわせてゆっ くりとまわってゆく、そんな寂しいオルゴールでした。

リーサはしくしく泣きました。ヤーコッピからもらったものなのに、というの です。かけらをひろい集めて、机の引きだしにしまいました。

なぜ物がこわれると悲しいのか、ミカには分かりません。それでヤーコッピの 心がこわれてしまうとでもいうのでしょうか。いいえ、違います。初めからこわ れていたのです。ヤーコッピはほかの人と結婚したのですから。それでもリーサ は約束を信じて待っているのです。


ミカさんの好きなものは手紙です。菜美からの手紙は好きです。今まで日本語 で手紙を書く相手がいませんでした。

アイノは日本語を話しますが、読みせん。それにカナリア諸島に手紙を書いて も、返事が戻ってくるまでに時間がかかるので、話がかみあいません。暑さに気 をつけて、という返事が来るときは、もう寒くなっていたりします。EMSでや りとりすれば別ですが、それはリーサが許しません。そのわけは、速達の人がノ ックするのがいやなのです。

リーサは臆病で、電話が鳴るたびに心臓が止まりそうになっています。だから 玄関のチャイムからも電池を抜いてあります。そんなわけで、速達の人はドアを ドンドンたたくしかないのです。でも、そんなことがあると、リーサはすっかり おびえてしまいます。

北原ミカ〉

ミカは文通好きでした。手紙を出すとすぐに返事をくれました。わたしも嬉々 として、またすぐに返事の返事を書いたものです。勉強のこと、身のまわりのこ と、将来の夢のことなど……。

当時、ミカが現実に話す日本語は、どことなく舌たらずで、ある意味で赤ちゃ ん言葉に近いものでした。ところが、手紙のなかの彼は理知的で、大人っぽいの です。初めはびっくりしました。

とはいえ、彼の書く日本語には妙な点も多々ありました。「わたし」「あなた」 という当たり前の言葉を使われない。全部3人称で「ミカは」「菜美は」と書い てきます。わたしが「ミカさんは」というと、つられて自分のことを「ミカさん は」といったりもします。

宮沢賢治がイワテをイーハトーヴと呼んだように、彼はカメアリをカムフェア リと呼んでいました。 Come, Fairy! ……《妖精さん、来てください》という 意味なのです。かわいい発想! たしかに音が似ています。ひとつ年下のミカは、 異常な知能の持ち主(数学の天才)であるかたわら、無邪気でおちゃめな子でし た。冗談めかして〈そんなミカが好き〉と書くと、おうむ返しのように、〈ミカ も菜美が好き〉という返事が来ました。それどころか彼は〈ミカの夢は菜美と結 婚することです。結婚してください〉というのです。なんという衝撃だったでし ょう。全身が締めつけられるようで、胸が苦しくなり、頭がぼーっとしました。 世界が揺れてるの? それとも、わたしが揺れてるの?

熱に浮かされたようになり、すっかりのぼせあがってしまいました。わたした ちは将来を堅く誓いあったのです。

半としちかくのあいだ、いちども梨屋敷には行きませんでした。代わりに買い 物に行ってほしいと母に頼まれても、なんだかんだと理由をつけて断わってしま って。ミカと顔をあわせるのが恥ずかしかったのです。調子に乗って〈本当に、 菜美と結婚してくれるんですか〉〈一生、菜美だけを愛してくれますか〉なんて 書き送ってしまったけど、ふと我に返ってみると、ヒエー、こんなこと書いちゃ って、もう恥ずかしくてミカと会えないよォ……。自分で書いた言葉が恥ずかし くって、耳のたぶまで真っ赤になってしまいます。ミカの方でも、
〈手紙には「愛してる」って書くけど、面と向かっては、そんなこと、いえませ ん〉
と、書いていましたっけ。

どちらかといえば、わたしの方が強気でした。〈菜美はいうかもよ〉と返事を 書いたのです。

すべてが夢のようでした。わたしには、すてきなフィアンセがいるのです。彼 は、優しく、おちゃめでおもしろく、そのうえ数学と音楽の天才。ほかのクラス メートたちより一歩先を行くような、心のなかでふふんとほほ笑みたくなるよう な、そんな気分でした。

でも、有頂天になる一方で、日ごとに不安がつのっていったのです。文通だけ の関係、言葉の上だけの関係では心もとない気がして。 初めは手紙のやりとり ができるというだけでハッピーでした。現実には会わないで手紙だけやりとりす るということが、むしろ心地よかったのです。現実に会うのは気恥ずかしいし、 緊張してしまいます。手紙の方が気楽だし、きれいだし、冗談めかして大胆なこ とも書けます。でも、3か月めくらいになると、どうも手紙だけではもの足りな くなってきました。またミカと会いたい。会っておしゃべりしたい。恋するおと めなら当然の思いです。といって、自分から急に梨屋敷を訪ねるのには勇気がい ります。お使いで行って、ばったり出くわしてしまうのも、なおさらきまり悪い。 どうして、ミカはわたしをデートに誘ってくれないのでしょう。誘ってくれれば いいのに……

もちろん、わたしの方から彼を誘っても良かったのです。いきなり電話するの はちょっと勇気がいるにしても、彼を誘い出すこと自体は簡単にできるでしょう。 それはそれでいいのですが、気になるのは、なぜミカは自分の方からわたしを誘 ってくれないのか? という、その点です。考えれば考えるほど気になります。 わたしを愛しているといい、結婚したいとさえいう彼が、いつまでたってもデー トに誘ってくれない。どう考えてもおかしなことです。

〈PS 最近、気になってるコト。いくら好きとか愛してるとかいっても、それはただの感情を、適当でひびきのいい日本語にしてるだけだと思うの。だからふたりの未来が暗いものに思えてしまうんだ……。こんな気持ち分かってくれますか〉

追伸の形で、さりげなくそう書いてみました。でも、ミカはあいかわらず無邪 気なばかりで、

〈PS ふたりでいっしょに暮らすときには、ネコをいっぱい飼おうネ〉

などと返事をよこすのです。

十月の文化祭に招待しようかな? 文化祭になら、さりげなく、自然に招待で きます。ミカを招待すれば、あどけなく愛らしい彼の姿を友達に見せびらかすこ ともできるのです。

だけど、有馬が怖くって……。生田がわたしを好きというただそれだけの理由 で、生田をあんなに攻撃した彼です。ましてや、わたしとミカが愛しあっていて、 将来を誓いあっていると知ったら、やぶれかぶれになって、なにをしでかすやら 分かりません。生田に言ったような暴言を、ミカに向かって言わないとも限らな いのです。

それでなくても、文化祭が近づくにつれて、有馬に対してある種の気まずさを 感じていました。本当なら彼のバンド『イル・ソリテール』も華々しくステージ に参加するはずだったのに。うまくすればコンサートホールにも出演できたはず なのに。それをわたしがみんなダメにしてしまったような気がして。もとをただ せば、わたしのどっちつかずのふるまいが、いざこざの原因だったような気がし ます。有馬を好きだと思ったり、やっぱり好きではないと思ったり。彼のキスを 初めは受け入れながら、あとから拒絶したり。

有馬にしてみれば、本当なら今ごろステージで……という、くさくさした思い だったでしょう。



十一月が来て、わたしは十四になりました。ミカは十二歳のまま。ミカと年が 離れてしまうのは、ちょっぴり悲しい気分です。

誕生日のことは何度も手紙に書いたのに、ミカはプレゼントはおろか「おめで とう」ともいってくれません。忘れたのでしょうか。フィアンセの誕生日を忘れ るなんて……。ますます不安になってしまいます。

結局、わたしの方から彼をデートに誘ってみることにしました。ほら、だって、 彼がわたしを誘ってくれないのは、照れていて恥ずかしいからかもしれないじゃ ありませんか。初めてのデートだけこちらから誘えば、あとは自然とうまく行く ような、そんな気がしたのです。それに、よく考えてみると、ミカの方はいつも 梨屋敷にいて猫のような気ままな生活を送っていますが、わたしの方には学校が あり、行事があり、試験があります。わたしのスケジュールにあわせて、こちら から彼を誘うのが合理的というものです。

〈パンダの赤ちゃんかわいいよ、いっしょに見にいかない?〉

そういってミカを誘うと、意外にも、あっさりと承諾の返事が来ました。

〈ミカは、やまねも好きです。ほかに、見たい動物は、もぐらです。いつ見に行 きますか?〉

〈二十三日の勤労感謝の日はどうでしょう? 亀有駅の改札の前の柱のところで、 午前十時に待ちあわせましょう。お会いするのが楽しみです〉

〈ミカは菜美と会うのが楽しみです〉

そんな手紙のやりとりがあって。案ずるより産むがやすし。すべて順調、スス イのスイと事が運びました。

生まれて初めてのデートの約束。胸が高鳴ります。その日が来るのが怖いよう な、待ち遠しいような。

この機会に、ミカのことを有馬に話しておきました。いつかは分かることなの だから、なるべく早めに話しておいた方がいいと思って。

有馬が出演するかもしれなかった例の音楽鑑賞教室。それが終わると、有馬も 「もうあれは過去のこと」と割り切ったとみえ、落ち着いた態度に戻りました。 一時は互いに傷つけあうようなことをいいあったわたしたちですが、今はまた、 それなりに仲良くなっていたのです。すべての傷をいやす、いつくしみ深い「時」 の働きでした。

ミカのことを切りだすには今が潮時です。また仲が良くなったからといって、 有馬に変に気をもたすことは、かえって酷でしょう。わたしが本当に好きなのは、 彼ではなくミカなのですから……。

なにかの折、有馬がまた「男なんて結局みんな同じだよ」と口にした機会をと らえ、
「あたし、そんなんじゃない男の子、知ってるよ」

わたしはいいました。「夢のなかで生きてるの。透きとおった目をしていて、あたしを見ていても、あたしの体が目に入ってないみたい」
「なんだよ、それ?」
「梨屋敷の子。ミカっていうの。ミカっていう名の男の子」
「梨屋敷?」有馬はみけんにしわを寄せます。「なんだそりゃ? おまえの空想 じゃないのか。そんなのどこにもナシ屋敷って。ピーターパンのネバーランドじ ゃないけど」

有馬が梨屋敷を知らないのは、無理もないことでした。わたしたちの住まいの あった亀有1、2丁目から見ると、北原邸は町の反対側の端でしたから。わたし 自身、母がお手伝いさんの仕事を始めるまでは、梨屋敷という通称を知りません でした。

「梨屋敷のハーフの子ねえ……」

わたしの説明を聞いたあと、有馬は考え深げにうなずきました。「ミカっての は、でも、たしかに男の名前だよ、西洋じゃ。聖書にもミカってのは出てくるし な。『預言者ミカの書』なんてのもあるし。英語でいうと、マイクとか、ミカエ ルとか、そんな感じの名前だろ」
「なるほど……。ミカってマイクってことか」

わたしは感心しました。有馬は物知りなのです。
「で、おまえ、そのミカってやつを好きになったわけ?」
「そう……好きになったの」うつむき加減でいいました。ミカもあたしのこと、 かわいい、って、髪をなぜてくれた」
「髪までは、もう手ェ出したわけか。フン。だからさぁ、なんだかんだいったっ て、男のやることなんてみんなおんなじだよ。結局そうやって体に触れてくるわ けだろ、徐々に」
「ミカはそんな子じゃないもん」
「だって男なんだろ? 何歳だよ、そいつ」
「十二」
「あー」有馬は意地の悪い顔をして、皮肉たっぷりに語尾を伸ばしました。「そ いつと、つきあってみたらいいよ。5年後にどうなるか。そいつは楽しみだ」
「ミカはそんな子じゃないもん」
「フフン」
「それに……。あたし、ミカとだったら、そうなってもいい」

わたしがそういうと、彼は打ちのめされたように、一瞬、言葉に詰まりました。 わたし自身、自分の口から飛び出た言葉に、ちょっと驚いたほどです。でもそう 口にしてみると、たしかにその通りだという気がしたのです。だって、フィアン セですものね。
「ああ」

有馬は弱々しい声でつぶやきました。「ミカとだったら良くて、おれとはいや か。おれはふられたってわけか。明快だな」
「有馬のことも好きだよ。でもそれは――」
「『恋愛感情じゃない』?」
「……そう思う。月並みなセリフだけど、これからもいい友だちでいてね」
「──と来たか。ああ。つらいな」有馬は肩を落としました。「万一そのミカっ てやつと別れるときにはさ。まあ、そんなことないと思うけど、もしもんときに はさ。おれの保険がかけてあるってこと、覚えといてよ。……なんてね」
「なぁに、保険て。どういう意味?」
「万一ミカ君にふられても、おれがいるってこと。失恋保険」
「そうね。考えとくわ。加入するかどうか」
「十年来のつきあいじゃん、おれたち? 慣性の法則からすると、おれがおまえ を忘れるのは十年後なんだよ。おれにとっては十年間、加速した恋だから。放物 線を描いてさ、こう、びよーんと高まった思いが、ふたたび地に堕ちる……」有 馬は手で放物線を描くジェスチャーをします。「計算によると、二〇〇三年には きれいさっぱりゼロになるわけだな。おれの想いは。……この気持ちは真実なの に、いつかはこの想いが消えるときが来るのか。この気持ちがゼロになる、それ がおれの真実――偽りの真実、真実の嘘。それが恋の墓碑銘、か」
「なに、ひとりでぶつぶついってんの?」
「フフ。おれさ。ルシフェルじゃん? 属性ニュートラル・カオス。カオスなん だよ、おれの本質は。特殊攻撃『ぶつぶついう』『きすをする』」
「作るなよー」わたしは吹き出しました。やっぱ有馬っておもしろいヤツ。「『うたをうたう』もあるんじゃないの」
「『かいおんぱ』か?」

有馬もにやにや笑いました。
「ふふふ」
「『仲魔』にしたくなった?」
「ん? じゃ〜、万一のときには、よろしくお願いしようかな」

わたしは気軽にいいました。深い安堵を覚えながら。 「お、交渉成立だな。でもさ、おれ、十年は待てないかも。やっぱ。五年契約ね。 満期返戻金はキスひとつ……最後に……いい?」
「いいわよ。有馬が忘れなかったらね」わたしはそういって、それこそ悪魔のよ うにニッと笑ってみせたのです。自分でも自分の大胆さに少々驚きました。知ら ないうちに、スレた女になっていたのでしょうか。
「『みわくかみつき』」

わたしは可愛くつぶやきました。彼の耳に口を近づけて。
「吸血鬼かよ。やめてくれ」
「──あたしもさー。堕天使、だったんだよねー。小学時代のさー。あだ名」
「マルコキアス。妖精と合成するとエンジェルになるやつ。……ああ、あの頃は よくやったよなぁ。手にファミコンだこができてたもん。十字キーの」
「ミカって妖精みたいだよ、そういえば。世の中の善悪には興味がなくて、自分 の世界で気ままに生きてるって感じ」
「じゃあ、ちょうどおまえ向きじゃん。堕天使プラス妖精、イコール天使。それ はきれいな方程式……。堕天使の昇天。そうか昇天ってゆーのは、いずれにして もベッドの上からなんだなぁ。だろ? テクニシャンがさ。女を昇天させるって いうじゃん」有馬は突然くだらないことを言い出します。「おまえのミカ君は、 どうだか知らないけど」
「あたしはもう堕天使じゃない」わたしはすねて抗議しました。
「じゃ、なんだよ? なんのつもりだよ?」
「『人間』」
「人間と妖精なんて合成できないぞ」
「それはファミコンの話でしょ。それにあたしはもう過去を捨てたの。今のあた しは明るい菜美ちゃん。キャピキャピ」わたしは両方のほっぺに人差し指をあて て、にっこり笑って見せました。「どこにでもいる、ふつうの中学生デース。ク ラスの人気者よ」
「――疲れる生き方だな、それは」

有馬はぼそりとつぶやきました。

くやしいくらい真実でした。風船がしぼむように、顔のにこにこが急速にしぼ んでいきました。
「……だね」
「……だろ?」

わたしたちは冥(くら)い目を見あわせたのです。

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