9 : 05 サンプリング・ライセンス

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ミュージシャンは注目! 「サンプリング・ライセンス」

2005年 2月21日
記事ID d50221

The WIRED CD: Rip. Sample. Mash. Share.

直訳版: オンラインCD: リッピングしろ!サンプリングしろ!砕け!共有しろ!

意訳版: いまどきのオンガク: 煮るなり焼くなりご自由に

意訳版2: 真・音楽ストアー: 本人が放棄したので誰にも止められません( ̄ー ̄)ニヤリッ

意訳版2a: 真・音楽ストアー: 誰にも止められません( ̄ー ̄)ニヤリッ

2aの方が簡潔でいいと思う。 「誰にも」が強調され、意味があいまいなために、人間の意思に縛られず自動的にキャッシュされて拡散されていく力動も暗示されるから。 でも「本人が権利を放棄したので」を入れないと、悪いことをやってるみたいでイクナイかも。 どっちがいいか分からないものは両方あればいいじゃん。好みによって選べばいい。てきとー。

もつれ的: この記事の題名はあなたによって選択される(?

3種類のライセンス

上記のらくがきは本題と関係ない。ここから本題。 リンク先では、 3種類のライセンスのいずれかで、音楽が公開されている。 これらのライセンスは、音楽を念頭においたもので、クリエイティブ・コモンズが提案した:

Sampling
広告利用以外なら、どんな利用目的でも、音楽の一部を取り出して変形して良いが、 曲全体のコピー・流通は禁止。
Sampling Plus
広告利用以外なら、どんな利用目的でも、音楽の一部を取り出して変形して良いし、 商用目的以外なら曲全体のコピー・流通(ファイル共有等)もOK。
Noncommercial Sampling Plus
非商用目的に限って、サンプリング許可。 商用目的以外なら曲全体のコピー・流通(ファイル共有等)もOK。 「Sampling Plus」と似ているが、サンプリングの許可範囲が狭くなっている。 「Sampling Plus」では、広告利用でなければ、商用作品でサンプリングしてもOKなのに対して、 「Noncommercial Sampling Plus」では、サンプリングして作ったものでお金を儲けてはいけない。

人間の現実と、理想の間で微妙な線引きはやってますが、 それはともかく、全体として、基本的にはサンプリングなんて勝手にしてよ的な、この自由の「空気」が音楽っぽいと思いません?

それに引き換え「常識なんてぶっ飛ばせ。オレは自由に生きるぜ」みたいなことを(本質的には)叫びつつ、 バックコーラスで「ところでこの曲を勝手にコピーするなよ。金払え。お前らどうせ勝手にコピーするからプロテクトしといたからな」 なんてぼそぼそつぶやいてる(言わされてる)やつらのかっこ悪いこと!

最優秀ジャズ・インストゥルメンタル・ソロでグラミーをとったテナー・サックスの Donny McCaslin。 作曲家は Maria Schneider。 このアルバムはネット配信のみで物理的CDは存在してなかったという。 これが2005年。

Forrester Research が「物理的な音楽の小売りは終わる」と予言したのが2003年。 坂本龍一が「CD永眠の年」と言ったのが2004年。 そして、2005年、物理的CDを1枚も出さずに、ネット上の流通だけで最も権威ある賞をとるミュージシャンが実際に現れた。賞をとったあとで、しゃれで(記念に?)モノがないと安心できない一部ファンのために9000枚だけCDを売るという余裕っぷり。 実際上は、音楽も、それにそえる言葉や絵が必要ならそれらも、すべてオンラインで足りている。

これが世の中の流れってことでしょう。 演奏権やら複製権やらごちゃごちゃ債権・質権を設定して、 レーベルやその上のJASRACに“手形割引”(それもひどいレートで…)してもらうやり方は、泥の舟っすよ。 てか、ミュージシャンから見て、 JASRACが権利侵害とか書かれてるし。 暴力団ですらやらないだろうという(少額過ぎて回収に要する人件費の割に合わない)アホくさい取り立てしてるし。 「泥の舟」自身は改める気がないなら勝手に沈んでも自業自得だし、 有名になること自体が目的の、目立てれば嬉しいバカ心理につけこまれているあやつり偶像的な自称ミュージシャンもどうでもいいけど…ね。

本当に好きな人が、こじんまりと、少数のコアのファンとやっていく形になるんじゃないかな…主流は。 だから目立ちたいっていう動機自体が合わなくなる。 細かく多様化してアーティストって本質的に「目立つもの」ではなくなるから。

顔も本名も何も明かさない「透明なミュージシャン」

器楽だったら、理論的には、最後まで顔も本名も何も明かさない「透明なミュージシャン」だって存在できる。 ミュージックが美しい限りにおいて、それは成り立つし、ビジネス的にも成り立つ。 カゲキに言えば、なんで音楽家の顔が見たいのか分からないよ、オンガクが好きなんじゃないの?

レコード会社とJasrac通さなければ、売り上げ今の10分の1程度で食ってけるので、 ファンの数も少なくて良いんだけど、そのシステムが軌道に乗るまでは一波乱も二波乱もありそう。 なにしろ、むこうは沈みかけの泥舟で、命がけでつかめるものは何でもつかもうともがき暴れるから。 その立場だったら、それはつらいだろうなと同情はする。 けど、CDが要らなくなっていることは、思想とかじゃなくて「事実」だから。 何かの思想や信条から嫌ってるんじゃなくて、あの連中、システム的に実際必要ないから必要ないと言われてるわけで。 「わたしたちの地位を守るために法律を変えてください」と政治献金するのだって、 もとをただせば無関係のファンから取ったお金だし…。

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CCCDと輸入権(輸入音楽を検閲し、差止する権利)

2004年 5月 3日
記事ID d40503

GLAY、先ほどスタジオで製品版試聴しました。愕然としました。先ほどの僕の文は訂正しなければなりません。
制作者の一員として、やはり許せない状況になっているのを痛感しました。悲しいことです。ああいう形にしてまでも、製品にして行かなければならないとしたら、僕たちにできる事は何なのだろう・・・と悩んでしまいます。

製品版のチェックに関しては、言い訳の様に取られてしまうかも知れないのですが、現実に不可能なのです。製品版は、あくまで製品サンプルが出来上がった後、しかも発売日もしくは直前くらいに私達制作者の元に届きます。それも「チェックをお願いします!」と言った意味では無く、「製品が出来上がりました。でも、これはあくまでサンプルで、レコード会社から貴方への貸し出し品です。」と言うニュアンスのものなのです。実際の製品チェックは、あくまで製造者(レコード会社)の責任になっている訳です。その過程において、我々が口を出す術は皆無なのです。

余談ですが、私の文が本人の承諾無しに勝手に一人歩きしている現状に憤りを感じます。

Re^12: CCCDについてより。発言者はプロデューサー・佐久間正英。

産業革命に取り残される運命の人々が不安を感じて騒いだのはある意味当然だ。しかし、その運動は産業革命そのものを止めることはできなかった。 100年以上たった今、産業革命は定着し、ラッダイト運動は存在しない。

Young Programmer, Stop Advocating Free Software!

"プログラマは飢え死にしてしまわないだろうか"
GNUの目標に対する異議とその反論
「どうやって食ってくんだ?」っていうことは、あとで考えようよっていう。単純に。いままでとは違うんだから、それに合わせた食い方っていうのは、もう、ちょっとあとで考えていいじゃんっていう。
音楽のこれから

レコード会社経営陣は、CCCDの「失敗」から学ばなかった訳ではないだろう

経営的に見て、CCCDの最大の失敗は、消費者(リスナー、ファン)とミュージシャンの両方からそっぽを向かれたことだ。 中間で利ざやを得ようとするビジネスにおいては、自分が割り込む場所の両側からこれだけ嫌われては、 もう駄目だ。しかし、いくら何でも、株主・経営者がこの失敗に気づかなかった訳はない、と思う。 それでも改めず、さらに法律をねじ曲げ「輸入権」なるものを創設させたのは――もちろんRIAA等の外圧もあったのかもしれないが――、 こうした業界が沈没寸前で、なりふりかまわずとにかく最後のカンフルを投入せざるを得ない、 他にもう道がなかったのだろう、としか思えない。

CCCDには「良い」面もあった。かれらが音楽そしてミュージシャンを虐待し、奴隷化し、絞り取っている様子が、 目に見え、耳に聞こえ、ハッキリ五感で分かるようになったからだ。 再生デバイスを破壊する。音が鳴らない。音飛びする。音が悪い。 その結果については責任をとらないと公言する。 音楽への虐待だ。 レコード製造者が「音質」を保証しないどころか、「再生可能」を保証しないどころか、 「再生装置を破壊」しようとしている。自己矛盾の極致だ。

音楽の悲鳴が聞こえる。

音楽家を「搾取」(言葉は悪いが)するのは、 一応本人も同意しているのだから一概に悪いとは言えないけれど(バランスがとれているかはともかく、持ちつ持たれつの要素があるのも確かだし)、 素朴に、音楽をないがしろにするのは、むごい話だ。

かれらが妄想した「大量違法コピー」とやらを抑止できるのなら、一応目的のための手段ということだが、 実際には簡単にコピーできてしまう。意味がない。 そもそも目的が妄想に基づいている。(だってコピーすること、リッピング自体は、もともと合法だもの。)

まともな音楽家なら、こんな方法で自作をリリースされたいと思うわけがない。 抵抗しても抵抗しきれない場合、というのは、要するに、原盤権・レコード化権・販売権といった権利を買いたたかれてしまっている場合である。 音楽家が自分で自分の音楽に対する権利を持っていない。CCCDで出されたくなかったら、 ご自分でレコード化権・販売権を買い戻してください、それらの権利は現在当社にあります、ということになる。 ひどい話だ。こんな商売が続くわけない。

「輸入権」も同じで、これは本来は「権利」なのだがから、音楽家自身が行使しなければ、何も起きない。 音楽を作った人ではなく、何も作っていない側がこれを振りかざすので問題が発生する。 したがって、中間寄生者にこれ以上吸い取られるのをやめて、自主流通の道を模索することで、 どちらの縛りからも逃れられる。次の世代のミュージシャンまでには、そうした意識が高まるに違いない。

レコード業界が勝手に滅ぼうが、滅ぶまいが、音楽は続く。 音楽というのは、音楽家がいて、それを聴く人がいれば、既に存在しているのであって、 両者を結ぶ媒体は、ラジオでもCDでもインターネットでも、あるいは空気でもかまわない。 もちろん、両者を出会わせる商売をやってもいいけど、 やるなら、客から嫌われないようにやらなきゃ。一方から嫌われても、他方を抱き込めれば半分は成功だが、 この場合、両側から嫌われて、全然駄目だ。両方から好かれるようにやらなければ、本当の成功にはならないと思う。 「歌いたい、表現したい」というミュージシャンの欲求と、 「良いものをたくさん聴きたい、感動したい」というリスナーの欲求を結びつける商売であるからには、 自然と「いろんなものをよりたくさん・より安く届けたい」「たくさんの選択肢を用意したい」となるであろう。 つまり「良い」というのは個人によって違うのだから、いろいろ自由に選べるようにする、ということだ。それは
――当社が良いと認めたものを認めろ
という押しつけでも、
――当社が許可した再生デバイスでのみ聞けます
という押しつけでも、あり得ない。 「音質は保証しません、再生保証もしません」「選択肢をどんどん絞ります」など商売の基本以前で間違っている。 経営方針が根本的に間違っている以上、自由競争があれば絶対負ける。売り上げはどんどん落ちる。 必然だ。 で、今度は競争要因を減らすために「まともなレーベルのものを輸入してはいけません。必ず当社のものを買ってください」というばかげた話になる。 そんなことを法律で強制するどこに音楽の自由があるのか。

これだけ虐待を繰り返し、トラウマを作ってしまうと、 たとえ心を入れ替えてやり直そうとしても、信頼を回復することは、もうすごく難しい。 別会社を作って一からやり直すしかない、と思う。 実際、長期的な経営見通しが立たず、もう倒産寸前なのではないか。 そうでもなければ説明がつかない。 「輸入権」を推進したのは、わらにもすがる思いだったのだろうが、 言えるのは、できれば早くラクにしてあげたい、というくらいだ。 暴れるとますます苦しいだけだよ、往生際が悪いぞ、と。

上記に当てはまるようなレコード会社に勤めている人は、早く転職を考えた方がいい。 これが不当な搾取に基づく商売であること、 消費者から嫌われているのみならず、 音楽が魂であるミュージシャンを精神的に虐待していることに、もう気づいているはずだ。 児童を監禁・虐待する児童ポルノ製造販売と同じだ。 どうしても転職せずに会社を存続させたいなら、勇気を出して「これ以上間違ったことはやめましょう」 「経営方針の抜本的な見直しを」ということを上に言うしかない。あなたにはそれができないのだから、 とにかく早いうちから、こっそりと転職の下調べはしておくべきだ。

若いミュージシャンは権利をうかつに買いたたかれないように、本当に気をつけてほしい。 「デモ音源すばらしかった。とりあえず10万円で権利を買いたい」みたいな話は、 「搾取しますよ。あなたの作品をこれから虐待しますよ。ひどい音質でリリースしても文句言えなくなりますよ」ということなのだ。 ミュージシャンなんて人がいいというか、感覚でやってる人が多いと思うけど、 契約書をよく読んでほしい。下手すると「演奏権、レコード化権」うんたらかんたら「その他一切の隣接権」などとあって、 あなたの権利を全部奪われてしまう。音楽を作った人・歌ってる人なのに自分の歌の権利が自分のものでなくなってしまうんだよ。 演奏権までとられたら、「自分の曲だったもの」を好きに演奏できないし(もう「自分の曲」じゃないさ、うっちゃったんだから)。 裸にされてしまうんだよ。「わたしの歌をそんなふうに扱わないで」と後から抗議しても「じゃあ権利を買い戻せ」となる。 あんた売ったときは10万円でも「その後の当社のプロモーション努力により、この曲の権利は現在5000万円になっています」 とか言われるぜ。 つまりあなたの思っている「わたしの歌」はもう、もう「わたしの」ではなく、向こうのタコ部屋に人身売買されちまっているんだから。 あなたには全然権利がないんだ。最後には、せいぜい著作者人格権でも行使して戦うくらいしかない。

自分の曲を恥ずかしい音質の低レートなWMAにされるなんて、音楽への暴行だ、レイプだ。 その複製を安い金と引き替えにばらまかれるなんて、ポルノ産業だ。 これだけ虐待されても、しょせん物権、好き勝手にもてあそばれても、慰謝料すらとれない。 だいいち権利を売り渡した以上、抗議できない。むこうは「正当な権利」をもっていて、そういうことをやるのだ。 やられ損だ。

ばかだね。ばかだね。レコード会社にそんなことされるくらいなら、 最初から自分のサイトでAPEやFLACで流したほうがいいじゃん。無劣化で。BTでさ。 俺の音楽はコピー自由だぜ、誰にも縛らせない・縛られない、たとえそれで死んでもいい、くらい言ってくれよ。 ミュージシャンだろ。 音楽の人生なんだろ。 サビでさ「♪ああすてき 何てすてきなCCCD〜 明るい未来よ ぼくらの輸入権」とかさ、 そのくらいやれよ、表現者なら、抗議しろよ、音楽愛してるなら。

まあ、でも結局最後は中抜きで丸く収まるのだろう。 あんたがおとなになったら、自分の子どもに「昔はレコード業界というのがあってねー」と、 遠い目をして廃止された奴隷制度の話を聞かせてやるがいい。

ニューアルバム『ザッツ・ザ・ミュージック』

  1. 《わたしは再生できない》
  2. 《音飛びの9秒――ジョンケージに捧ぐ》
  3. 《わたしはプレーヤーPCで再生すると嘘になる》
  4. 《偶然性の音楽: ゆがんだボーカルと破壊されるドライブの異音のための》
  5. 《禁じられた詩: わたしを歌うと逮捕される》
  6. 《この文は読もうとすると文サイス、ア、ケ、》
  7. 《ニノ、皃ハ、、・皈テ・サ。シ・クカ菫ァア゚ネラ、ハ、ノヌ网・ハ、、、ウ、ネ。ェ》
  8. ERROR: NO DISC

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著作権ネタ 3題

2004年 5月 2日
記事ID d40502

現在(2004年)の現実のなかで、ふとかいま見えること。

  1. DVDの「複製」の価値
  2. ファンサブの「ライセンスされている・いない」問題
  3. BPS バトル プログラマー シラセ

DVDの「複製」の価値

要約

5000円のDVDのなかみを無権限で誰かに送信して、権利者に5000円の損害を与えたと認定されたとする。 この一見当たり前のような話は、実はDVDの物理的流通は無価値であることを示唆している。 複製されたデータがそれだけで5000円の価値を持つなら、DVDの円盤自体は0円だ。 当たり前すぎる(あるいはつまらない)話かもしれないが、一応基本的な観点として、メモしておく。

初めに

Aさんが版権を持つ定価5000円のDVDの映画を、BさんがDivXなどで圧縮してPC用ファイルにする。 Bさんがそれを無権限でCさんに送信したことが証明され、AさんがBさんに賠償を請求する場合、 いくら請求するのが適切か。

普通、そのDVDの定価(末端価格)の1枚分となる。 つまり5000円だ。 「BさんがCさんに送信しなければ、Cさんは5000円払って自分でDVDを買った」と推定するわけだ。

ここまでは普通の話だが、 さらに突っ込んで「ではCさんが受信したDivXのファイルには、元のDVDと同じ5000円の価値があるのだろうか」 と考えてみよう。

「複製=オリジナル」論

基本的には、この立場に立たなければ、自分の版権物がコピーされたと言えない。 単純に考えると、Aさんは、この立場だろう。 ところが、この立場だと、結局、 Aさんは私が販売しているDVDの円盤は無価値なゴミですと証言していることになる。

「なかみの情報をコピーされた場合、それが元の物理的媒体の定価と同じ価値を持つとするならば、 物理的媒体自体には(ほとんど)価値はない」ということだ。

この考え方は、実際の消費者の感覚ともおおむね合致する。

しかし、DVDの定価には、物理的円盤の製造・流通・物理的店舗での人的販売などのコストがかなり入っているだろう。 なかみだけなら5000円の価値はないのだが、従来、「なかみだけ」を分離する方法がなかったということだ。 実際、そのDVDの作品を作ったアーティスト、クリエーターのところには、 DVDが1枚5000円で売れてもせいぜい数百円の印税しか入らない。 それがなかみの「正価」である。

ということは、このような損害賠償請求訴訟を通じて、 じつは、DVDの流通過程の問題をあぶりだしていける可能性がある。 これは何もAさんに不利な話ではない。Aさんとしても、コストがかからなければ例えばDVDを1000円で売っても自分の利益は同じになる。 安いほうが売れるから、利益が増す。 中間流通の無駄を省いていくという方向は、最終的にはAさん自身をもおびやかすのだが、 ひとたび競争が始まれば(他の会社が映画のDL販売を始めれば)そうも言っていられなくなるだろう。

「複製<オリジナル」論

「何言ってやがるんだ、これはロスレスのデジタルコピーじゃねー! DivXだろうが。 4GBのデータを10分の1サイズに破壊圧縮したものが元と同じ価値のわけない。 そもそもDVDのコピーというからには、DVDと同じ機能を持たなければならないが、 こんなもの一般のDVDプレーヤーで再生できないではないか」という意見である。

確かに一応そうともえいる(DVD-ISOは別だが、ここではDivXと考えているので)。 「Cさんが取得したものには結局5000円の価値はないし、Cさんはこれでは満足せずやっぱりDVDを買うから、 5000円の損害はない」と防御するために、そんな主張をしてみる手もある。 とくに実物の証拠が出されてオリジナルと変わらない品質のときは、あまのじゃくに「これはオリジナルの品質に及ばないから、 オリジナルの価値はない」などと言ってみてもおもしろいかもしれない。Aさんが不用意な論調で「いや、どう見てもオリジナルと同じだ」 と反論したら、カウンターパンチが飛ぶ。 「じゃあ、あなたのこの物理的媒体は無価値だったのですね」「物理的媒体があってもなくても情報価値は同じだというのですね」 「つまり、あなたはなくてもかまわない価値のない円盤を法外な値段で売りつけていたのですね」

Aさんも一歩後退して「いや、これは箱のデザインなどにも価値があって、パンフレットも同封されていて、 そこにも大きな価値が」などと言い出すかもしれない。そこで「なるほど、ではそれらも含めて5000円なのですね。 なかみだけだと、5000円分まるごとはコピーされていないわけですね」 被告側の弁護士も賠償額を値切ろうとして、そんな理屈をこねるかもしれない。 Aさんの側も「いや、まるごと侵害されているのですが、箱にも価値が」などと矛盾したことを言い出すだろう。 「じゃあ箱などの外装の価値はいくらなのですか」 ――やはり、最終的には、あの円盤にはもう意味がないのでは、という方向になる。 だいたい、DVDの物理的メディアなんて一般的な環境で保存したら10年もてばいいほうではないか。 バックアップされたデータなしにはまともに「所有」自体が成り立たない。

「複製>オリジナル」論

複製のほうがオリジナルより価値が増している場合だ。

そういうこともあるだろう。旧作アニメとか……。 証拠としてスクリーンショットを持ち出して「こちらがオリジナル」「こちらがフィルター済みの“偽物”」。 知らない人なら驚く。「なんですか、このものすごいノイズは。なんですか、この色のにじみは。 こちらが非合法にコピーされた劣悪な海賊版で、こちらが本物でしょう」「それが逆なんです」

そこに実際に絵を描いたクレイジーなアニメーターが出てきて、 「DVD会社は技術的にもっと高品質が容易に可能なのに、不当にそれを怠った」 とか怒り出し、今後は御社とではなくBさんと契約します、となって、まるく収まるのだ。(そんなばかな)

ファンサブの「ランセンスされている・いない」問題

要約

アメリカ国内には「アメリカ国内でライセンスされていない日本のアニメは自由にファンサブしていいのだ」という有力意見があるが、 それは長期的に見て正しくない。

序文

以下は「日本アニメのアメリカでのファンサブ」における「アメリカ国内でのライセンス」の意味、 というかなり限定的な問題を切り口にした話で、 「ファンサブは死にゆくのか?」(2002年)、 「ビジネスモデルとしてのファンサブ」(2004年)に対する付け足しのような感じになっている。

2005〜2010年には一般化するであろうDL販売を前提とした話が多い。 しかし、現在一般的である物理的なDVD販売の場合でも「R2 DVDを買うマニアックな海外アニメファン」にとって、 字幕データがあるかないかは重要である。 字幕データが別途入手可能だからこそR2 DVDを(日本から直接、あるいは現地の店経由で)買う人がいる。 字幕データがないより、あるほうがR2 DVDは売れるから、日本にとっては利益である。 本質的には、R1 DVDでさえ実はそうなのである。 DVDの売り上げに悪影響があるのは映像部分のコピーであり、 字幕部分ではない。

では、R1の場合、なぜ利害の衝突が問題になるか。 これは言うほど単純な話でもない。 ひとつには、リージョンを分けて利益を最大化しようという前世紀のビジネスモデルと、 国境のないインターネットの広帯域化、という現在の状況に不整合がある。 R1 が出ると分かっていても数年待たされる場合や、一部カットがある場合、 ファンは R2 に向かう。 それでも字幕データがなければ結局 R1 に頼らざるを得ないが、 字幕データがあると R1 は要らなくなってしまう。 これがひとつの問題だ。

もうひとつの問題は、内部の複雑さだ。 日本のファンサブは歴史が浅く、字幕をつくった本人が、動画の作成、字幕をつけた動画の公開まで、ひとりでやっているようだが、 アニメのファンサブは歴史も長く、多角化、分業化が進んでいる。 よく言われるファンサブの功罪はもちろん、アニメがファンサブと不可分であった歴史的経緯から、 現在、アニメ関連産業の従業員にもファンサブ経験者・利用者が少なくないと見られ、 簡単に割り切れない状況になっている。

「ファンサブ=英語」でないこともある。 例えば、デンマーク語の字幕がデンマークで広まっても、ADVは困らない。 「字幕はここにあるから R1 DVD を買おう」となれば、アメリカは儲かる。 その点でも、デンマークのファンサバーは気兼ねしないだろう。 ただし、間違いだらけの字幕は存在自体、 害と言うべきかもしれない。ストーリーが正しく理解されないからだ。 それでもロシアのファンサバーのように、そもそもディストロしないで自分用に字幕を作る場合、 ファンサブは完全に問題ない。このように、完全に問題ない行為から.EDUのバックボーンで動画を送信することまでが渾然一体となっているのが実情で、 日本のWinnyユーザのようにブロードバンドの人がひとりで全部やっているのと比べると、かなり複雑である。

AVISubDetector に象徴されるようなツールが、ロシアやチェコやハンガリーといった「少し辺縁」の地域で開発されるのは、 今ファンサブがかなり大量に流通しているようだが、 それでもまだ国際的には需要が満たされていない、という作品に対する世界のマーケット地図そのものである。 今は英語のファンサブ版を通じてアニメを楽しんでいるファンが多い。 英語が母語の人はそれでいいとしても、割合からいうと、そうでないファンの方が1:10くらいで圧倒的に多い。

ライセンスの問題

これはアニメのファンサブでは非常に古典的でありながら、 いまだに結論の出ていない議論なのである。

法律論というより、倫理観のようなもので、 簡単に言うと、 「A国企業にライセンスされていないアニメはA国でファンサブしても問題ない(問題は少ない・あるいは逆に公益である)が、 A国企業にライセンスされたものをA国でファンサブするのは悪である」という有力意見があって、 それに対して「どっちも同じだ」という対立意見がある。とくに対立意見側は、 第一の立場の者の「わたしたちはライセンスされたものはファンサブしません」という善人面を批判する。

理論的には明らかに対立意見の方が正しい。 ライセンスされている・いないということは、 ファンサブがライセンスする側(この場合日本の企業)のライセンス権・翻訳権・海外販売権などの侵害であることには影響を及ぼさない。が、 確かに、アメリカ国内でライセンスされていなければアメリカ企業から訴訟を起こされることはないだろう。 この現実的感覚がファンサブ世界において、「ライセンスされた・されていない」ということの意味を重大にしている。 結果的に、第一の意見が今も有力であることは変わらず、 見解の統一に達していない。

裏を返すと、日本の企業から直接訴えられることはまずない、という油断がある。 現実にも、ライセンスされたものについては、ライセンスされた企業から警告が来ることがあるが、 日本の企業(または、そのアニメの「制作委員会」)から警告されることは、非常に珍しいと思う。

これにはいろいろ背景があるだろうが、 従来の考えでいくと、既にライセンス済みなら、海外市場で侵害があっても、ライセンス先が損をするだけで、 自分が損をするわけではないから、わざわざ自分が動くことではない、と言える。 ライセンス予定がない場合、やられてもやられなくてもどうでもいい、関係ない、という意識かもしれない。 あわよくば無料で海外プロモーションしてくれている可能性もあるのに、 確たる根拠もなくやめさせるのはかえって損だし、 「やめろ」と警告するなり強制的にやめさせるのにも調査・法務などの人件費がかかる。 ライセンス予定がない=開拓予定がない市場での権益確保のために、そんなことをするのは損だ。

以上のようなことで、侵害者から見ると、ライセンスされていなければ、誰も訴えてくる者はいない、ということになる。 そうなると、誰も訴えない=誰の損にもならないでファンの利益になる字幕は、 法的に厳密にどうかはともかく、現実的に結局公益である、という倫理観になる。 実際、「ライセンスされたら最終回前でもやめる」チームが多いことは確かで、 さらに「ライセンスされたものは流通しないように積極的に責任をとる」意識も確かにある。 ライセンスされたものはBTに載せない、それ以上の拡散も禁止するためfserveからも除去させる、といったことだ。

こうした考え方は理解できるけれど、自分はむしろ対立意見の側だ。 実際問題、日本のアニメ会社などの側からみて、 できれば海外でも売りたいけれど、まだ話が決まっていないような場合、 適度に宣伝してくれるくらいはいいとしても、完全なクオリティーのものを大量に流されては、困るのではないか。 それに何といっても、 「アメリカでライセンスされてないうちは日本の著作物を勝手に使ってもいいんだぜ。 アメリカでライセンスされたら、やめればいい。これ正義」という一部のアメリカのチームは、日本の著作権を国内のそれより軽視している、 という点で、間違っているし、図々しい。 「アメリカでライセンスされたかどうかなんて、こっちには関係ないもんねー」というヨーロッパのサバーもいる。 まあ、国内問題、といのは、それぞれやはり無視できない感じだ。

国外で訴訟を起こすのは、国内で訴訟を起こすよりは面倒が大きいのは確かだ。 国内の同人誌を黙認し、国内のファイル交換をとりあえず座視している状況で、 さらに訴えにくい国外のファンサバーなどはターゲットになりにくい(直接的な不利益になっている度合いも小さい)。 それもまた客観的な事実だ。 特別な政治的意図などがある場合を別にすれば、もし損害賠償請求訴訟を起こすなら、 まともに考えて、見せしめ効果が高く、実際に賠償金をとれる可能性の少しでも大きいところを訴えるだろう。

ところが、今後ネットの力がますます確立すると、 国内と国外を区別する意味がなくなってくる。 さらに、中間流通の無駄も省かれてくると、結局、一次的な権利者が自分で直接警告する・しないを選ぶ必要が出てくる。 だから、ファンサブの問題は、今後どこかの時点で、クローズアップされることになるのであろう。 なぜなら、日本国内で発売済みのものをP2Pで流されても、それでも一定の売り上げは必ずあるだろうが、 国外で未発売のものが流通した場合、その地域で本来なら発売できたものが発売できなくなる可能性もあるからだ。 つまり、国外のファンサバーは、目立たないようでも、長期的には国内のWinnyなどより問題がある場合もある。

追記

小学館キャラクター事業センター センター長 久保雅一さんという方が、 いろいろな問題のなかで、 こういうことも指摘している。 「台湾では日本番組の海賊版が明らかに減少し、代わりに『冬のソナタ』の人気が大きく高まっている。つまり、日本のテレビドラマのライセンス版は台湾や香港では流通していないので、日本番組の海賊版を駆逐すればするほど、韓国ドラマの販売を促進することになる。このままではアジア中が韓国ドラマ一色になってしまい、対策が必要である。」(2004/11/16 日本製アニメとマンガの国際戦略

不正規版を取り除くことは、正規版を流通させることとセットで行わわれるべきだ、ということだ。 日本国内と同時公開が理想だが、それが無理だとしても、せめて発売予定日くらいは確定させるべきだ。 その地域で発売が予定されていないものを(正規版を与えることなく)一方的に取り締まろうとすると、 さまざまなネガティブな結果が生じる可能性が高い。 それは、例えば、海外在住の日本人がある方法で日本のテレビ番組(もともと日本の自宅にいれば無料で見られる放送)をリモートからネット経由で見ていたところ「それは正規の方法でないから」という理由で取り締まりを受け、 「では正規の方法で見ますので手続きをお願いします。多少高くてもかまいません。海外にいて日本語の情報に飢えているのでぜひ見たいのです」というと、 「そのようなことは受け付けていません」と言われるようなもので、権利者のそのような行動は権利関係の上ではまったく問題ないのだが、 客商売・ファン心理・企業イメージなどのサイコロジカルな面で、多々問題がある。 いわゆる「孤児作品」の問題もある。 すなわち、商業的に成り立たないという理由で絶版等になり、権利関係のため、事実上その地域では(あるいはもとの地域でもある時期以降は)入手できなくなってしまうような優れた作品の問題だ。作品を単なる経済的な商品と考えるなら、それも仕方ないとあきらめがつくが、 文化的・芸術的な価値を考えるなら、その作品が幻の名作になってしまうことは、文化全体にとって大きな損失だ。 (事情は異なるが、あれだけ大ヒットしたキャンディーキャンディーの再放送ができなくなってしまったことも、 複雑な権利関係のはざまで起きた悲劇の例だ。)

多数商品をそれぞれ少数販売するシステムが確立していないための、過渡期の混乱もあるかもしれない(amazon、iTunesなどは、既にこれで成功した例だが)。 権利者とファンの間で、作品が単なる商品というだけでなく、より普遍的な価値を内在しているのだという意識が真に共有されなければ、 クリエイターへの敬意も生まれにくく、モラルの低下が生じる面もある。

ビジネス、客商売は、やはり基本的には、相互の信頼関係を基盤とするべきだろう。 お金だけ、ものだけ、法律や経済だけではない。 いわゆるCCCDは、この問題で客の信頼を失い失敗した例だ。 ごく少ない割合ながら、CCCDにしたことで「不正流通」を抑止できた面も確かにあったのかもしれないし、 抑止しようと努力することは権利関係の上ではまったく問題ないばかりか自然であるが、 しかし、そのやり方が適切でなかったため、一人二人を抑止するために、一万人の善良な顧客の信頼を失った。

この問題については「世界のアニメの問題」でもう少し詳しく触れている。

ビジネスパートナーとしてのファンサブ

サバーが関与したことによって、初めて需要が生じる。 では10ドルで売れるとして、サバーの仕事が10ドルの価値なのだろうか。 そうではない。サバーが仕事をできたのは原作があったからだ。 どちらの一方が欠けても意味がない。

中間の流通の無駄が省ければ、ビジネスの効率が良くなる、という原則は、ここでも当てはまる。 アメリカのDVD会社に1万ドルでライセンスして、そのライセンスで先方は10万ドルの利益をあげるのだとすれば、 そもそも1万ドルでライセンスなどせず、日本の版権者が自分で英語版を作って10万ドル儲けようと考えたっていいのである。外国語版を自分で作るノウハウがない? そこが「ビジネスパートナー」の使いようではないか。 ひとたびダウンロード販売の世界標準システムが確立すると(映画のオンライン配信にはその確立が不可欠だから、早晩確立するはずだ)、 現地の企業を通した物理的販路など必要なくなる。 厚かましい「ファン」の連中は侵害者ではあるが、うまくビジネスパートナーにつければ、 この連中のフリーの作業だけで、英語版、フランス語版、スペイン語版……がいきなり日本からダウンロード販売できるようにもなる。 ばかとおたくは使いようだ。

ダウンロード販売さえ確立してしまえば、ファンのファンサブを衰えさせるのは簡単だ。 ファンのファンサブは日本国内で公開された数日後くらいにならないとできないが、 ビジネスパートナーのファンサブは日本と同時にDL販売開始できる。 テレビ放送などコストがかさんで仕方ないので、日本国内もDL販売にしたらいい。 初期資本は要るが、スポンサーなど要らない。純粋にアニメ制作をしたところで販売する。 制作費+アルファを回収できれば、次が作れる。

常に数日早く、翻訳も公式のスクリプトを使って準備周到、価格も低廉であれば、数日遅れて慌てて訳しているファンなど出る幕がない。 そうなのだ。我々の製品の方が品質が高く本物である、と胸を張れてこそ、対抗措置がとれるのであって、 こうなってしまえば、そもそもファンのファンサブ自体がなくなる。 違法に無料にしたければ、既に数日前から出ている正規版を違法コピーしたほうが早いからだ。 この状態ではファンサブの需要はないと言える。

このような観点からこそ、 「そもそも今現在、ファンサブにこれだけ需要があるのはなぜなのか」という根源的疑問に答えることができる。

侵害者としてのファンサブ

ファンサブの価値を「逸失利益」として評価すると、 DVDの単純コピーより、さらに複雑だ。 日本語圏外で「ファンサブがなければ日本語版DVDを買ったのに」と推定するのは、 いくらなんでも不合理だからだ。DVD版がない場合のTVのキャプチャーの値段など、 ますます話が分からなくなる。

「外国人を主体とする犯罪が一部は日本も舞台に行われている」として日本の警察に訴えたら、どうだろう。 申込先が分かっているような大規模な海賊版製造販売、オークションでの頒布なども、放置しているのに、 相手方不明のものを訴えて調査してくれ、というのも変というのもあるが、 それより、調査しようにも国外の協力を得にくい面もありそうだ。 アメリカの捜査機関から見ても、薬物やポルノなどならともかく、 「テレビの録画が勝手に使われています」なんて軽微なことで調査依頼されても困る、 というのは、言われそうだ。RIAA、MPAAまわりだけでも対応が追いつかないのに、よその面倒までみれるか、と。 「アニメ」は日本の資源であり戦略輸出物資であって、「児童ポルノ」に準じる重大問題なのである、 という点について、文化的理解も必要だろう。

現実的な問題はともかく、理論上として話を進めると、 国外にいる外国人のやったことを、日本に連れてきて日本の法律で裁くわけにもいかない。 めんどくさいから、在日外国人など日本在住の関係者だけをとりあえず日本国内で訴えてみるのはどうか。 理論的には可能性があるが、欠点は、一般的な抑止効果がほとんどない、ということだ。 日本で誰かが罰金刑を受けたとしても、そのグループ内では深刻問題扱いされるのは確実だが、 一般には、そんなニュースは日本国内ですらまともに報道されないだろう。 一般のアメリカのサバーに対する見せしめにならないどころか、その事実自体が知られないままで終わってしまう。 そして罰金刑をくらったチームも、日本在住でない別のメンバーを見つけてきて、どうせ続けるだろう。

もっと悪い可能性もある。ある一国だけで話をまとめようとしても証拠などがそろわないし、 結局、罰金刑にさえできないかもしれない。 最悪、ファンサブ・コミュニティで大ニュースになり、 ファンサブ無罪確定などと世界的に話題になる。 やめさせるどころか、かえって勢いづいてしまい、なぜ無罪になったのかの経緯から、 こうしておけば大丈夫だ、と対策されてしまう。

比較検討

なぜファンサブが存在しているのか、という原点から出発するべきなのであって、 よくよく運が悪い数人が日本国内で訴えられて略式で罰金刑をくらう、ということがあってもなくても、 世界のファンサブに対する影響は限りなくゼロであり、罰金刑をくらわせるための準備費用で損するばかりだから、 そんなことでは気休めにもならない。

侵害によって損をしているのではないか=逸失利益が出ているのではないか、というのは、 要するに「儲けられるなら儲けたい」ということであるが、侵害をやめさせるだけでは、儲からない。 侵害者を「代理店」として、後からいちいち裁判所経由で請求書を送るような焼き畑農業で儲かるわけがない(一回金をとったら、 もう代理店契約が終わってしまうのだから)。 「需要があるから供給がある」という当たり前のことに最初に気づいたベンチャー企業が、極めて有利な活動を行える余地を持っている。 テレビ放送を前提とせず、DL販売を前提にして、アニメの制作に投資する。 国内だけを相手にするのではない。企画の段階から、パートナーとしてファンサバーを入れる。 高い翻訳家をやとう必要がなく、DVDの円盤を海外に流通させる必要もないビジネスモデルだ。

海外進出はできぬまま、散発的に海外のサバーに警告をしても何のトクにもならないが、 ビジネスパートナーにつけてしまえば、こうやって、スポンサーに縛られない自由なアニメ制作ができる可能性もある。 まあ、実際にはそう図式通りには行かないだろうが、検討の余地はある。

この図式の鍵を握るのは、結局のところ、DL販売のシステム、つまりDRM標準なのである。 ところで、DRMが受け入れられるためには、消費者にあまりに不便・不自由を感じさせてはならない。 容易にコピーされてはDL販売が成り立たないから、DRMは必要なのだが、 「コピーはできないが、購入者自身ですら特定環境ですら再生できない」のでは不便だし、 ましてやハードウェアを破損する可能性のあるような規格は問題外、下の下である。

この問題を考えてみよう。

一般的な自由と特殊な制限

いくら行動は自由といっても、例えば、駅前で刃物を振り回しているような人がいたら、 通報されて、処罰されないまでも、やめさせられることになるだろう。 けが人がまだひとりも出ていないとしても、やはり危ないのでやめさせる、ということになる。

ところで、刃物がなければ刃物による傷害や殺人を未然に防げるとしても、 だからといって、一般的に包丁やナイフの所有を禁止されるわけではない。 何かの自由が制限されるとしたら、制限することによる公益が、 制限されることによる不利益より、ずっと大きく、あるいは緊急であるようなことが必要だろう。 もし、このバランス感覚が崩れると、結局、ひずみや矛盾が募ることになる。

ファイル交換もファンサブもSSも、それが外形的に侵害であるということとは別に、 ある種の「本質的・巨視的な問題」に対する自然な解になっている。 一方では、人間の好奇心(すぐれた作品に多く触れたいという自然な気持ち)、 優れたものを愛し、広めたいという自然な欲求、 あるいは他の作品に仮託しつつ自己表現を行いたいという創造性、表現の自由への欲求があり、 他方では、古い流通システムの欠陥があり、現行の制度が新しい時代に対応していない、という問題がある。

こうした事実は、理論上は、何ら侵害行為の違法性を阻却するわけではないけれど、 同人誌やSSのようなものも含めて「理論的には権利の侵害」であるものをすべて厳密に取り締まっては、 人は萎縮してしまい、文化的にマイナスになる。 歴史的に見ても、アニメもマンガもパクリやパロディーが本質的に重要な意味を持っている。 だからこそ、同人誌などが、あまりうるさく言われない土壌があるのだろう。 実際、著作権侵害は親告罪なのだから、訴えがないうちは取り締まれないし、 元ネタの作者自身が「そのくらいいい」とか「そういうの好き」と思っているものについてまで、 忽然と警察があらわれ「このパロディーは○○先生の作品の侵害だから調査する」などと言われては、誰のトクにもならない。 ○○先生本人は「そのパロディー傑作」と笑ってるのに「客観的」にとにかくパクリなので本人が良くても駄目です、 などと言われても迷惑なばかりだ。 さらには取調中、侵害された側の○○先生が 「じつはそのコマ、そもそも火の鳥のここのパクリなんですけど」とか告白して、「じゃあおまえも逮捕する」と言われたりして……。 これはろくでもない話で、表現の自由という根幹が揺らぐばかりだ。 あんまり細かく線を引くのも、本人と無関係に「客観的」に判断するのも、よろしくない。 少してきとーなくらいでちょうどいい。文化とか創造とか芸術とかそういった分野は「ここからここまでは善でここからは悪」などと簡単に線が引けるものではないからだ。

ひるがえって「海賊版販売はいけないから、CSS解除ツールは違法! Linux用のDVDプレーヤーは違法!」 「殺人はいけないからナイフの所持は違法!」 「ファンサブはいけないから、字幕作成ツールは違法! 辞書は違法!」 「違法コピーはいけないからDivXコーデックは単純所持でも違法!」 といった感じで、自分に都合悪い用途に使えるツールは、 自分と無関係な別の用途での有用性などどうでもいいからとにかく違法にしてほしい、という浅はかな主張がこれ以上通るとなると、 消費者としても我慢の限界と言わざるを得ない。

一般的な自由と特殊な制限との間には、バランス感覚というものがある。 公益のためには私的な自由が制限される、ということはありうるが、 著作権などしょせん誰かの独占権・財産権にすぎない。 そんなくらいで、自分が購入した商品に関する行動の自由、 さらには表現の自由、学問の自由、思想の自由といった、より一般的・基本的・自然権的な権利が、あまりに制約され、現実的な不便がかさむと、 ついには国民の理解を得られなくなり、そうなっては、民主主義の建前上、法律のほうを変えるしかない、という結論になる。

テクノロジーの時代である。「法律で違法にして」「懲役刑=身体的刑罰で脅して」やめさせる、など、何世紀前の話をしているのか。 エレガントなDRMを作って、購入者は自由に使えるが、再送信は難しいように、技術的にそうすればいい。 例えば、いつでも非常に安い値段で見られるが、保存はできないようにしてもいい。 「保存できない」ことの不満は、「百年後でも絶対にいつでも見られるようにする」という保証があれば、なくなる。 だいたい自分のローカルのファイルスペースが節約できるから、そのほうがかえっていい。 20年後には再生できない可能性が高いDVD円盤よりずっといい。 「自分でエンコードできない」という不満は、「あなたがどうあがいても、これ以上の品質は無理です」という、 圧倒的なクオリティーを提供してもらえば、なくなる。 エンコードの時間が節約できるから、そのほうがかえっていい。 今の劣悪なDVDよりずっといい。 レンタルなら、レンタルの期日を過ぎたらデータが再生できなくなるように、データ自体をそういうオブジェクトにしてしまえばいい。 「技術的保護手段の回避を違法とする」などという事後的なことではなく、 回避できるようなちゃちなテクノロジーは最初から使わない。 DRMは今後の「所有」の基盤であり、社会秩序のかなめである。 [Shift]キーを押しながらCDを挿入すると回避できるがそれは違法だ、などという寝言はいい加減にしてほしい。 そんな安いDRMではお話にならない。 ファイル共有ソフトやDVDコピーソフトを検出して、妨害するような事後的な防衛システムは、 自己の技術が劣っていることを告白するに等しい。劣った技術では負けるのは市場経済の常識だ。

それでもその技術を回避するハッカーは出てくるだろうが、それは別にどうでもいい。 普通のユーザは、1回10円とかの代金を払いたくないという理由で、面倒なことをしたがらないからだ。 最初から、回避の努力が無意味になるくらいの安い値段に設定してしまえばいい。 そして何より、アーティスト、制作スタッフとファンの間の素朴な信頼関係を回復し、あるいは確立することがいちばん重要なのだ。 この作者には喜んで支払いたい、応援したい、という気持ちになれるような状況こそが望ましい。 自分の払った金の1割も本来の作者のところにいかないのでは、そういう気持ちが育ちにくい。

Meanwhile, other industry insiders are not exactly rushing to blame anime’s ardent fanbase for the ease in which these files are readily available. Fans are technologically savvy and have been subtitling anime on their own for more than a decade. のように、2004年末でも、一部の企業以外ファンサブを黙認する傾向が見られる(Anime Industry Faces Piracy Concerns)。ファンサブを問題視する一部の企業でさえ、 “We have sent these fan-subtitling groups cease and desist letters. Most, if not all, usually comply and stop the distribution of a newly acquired property,” Chu added. と、ライセンスされた時点でディストロを止めてくれればおおむね満足(それ以上は何もしない)。 本文中では「油断」という言葉を使ったが、はっきり言って、少なくともMF事件前、一般のファンサバーはほとんどリスクを感じていなかった。 「このサイトではライセンスされたものはリストしていません」とページの最初に書いて、 それでクリーンだと考える人が多かったし、 現地の企業でさえ上記のような対応状況なので、日本から直接警告しても軽視される傾向は否めない。ただ、 年が明けて2005年、5年後にはどうなっているか分からないね、というのが関係者の実感だろう。ファンサブのような枝葉の問題とは別に、 根幹の日本のアニメ産業自体も末期的状況だ。アニメ自体が滅ぶことは考えられないが、産業構造は大きく変わっていくかもしれない。

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前書き

まじめな議論というより、話のネタ。 「作品は自由に共有利用できるようにするべきだ」といった現実的な議論を超越して、 「作品はそれ自身が自分自身に対する権利を持っているのであって、独占であれ共有であれ、 人間がそれを縛ることはできない」という哲学的・思弁的な考えが基本になっている。 現実にこういう風にシステムを変えるべきだ、と主張するには、あまりに現在との差が激しい。 ファンタスティックなSFのようなものだ。 しかし、そういう観点からとらえ直すと、現実の動きにも、すっきりと分かりやすくなる部分があるようだ。

「奴隷」という言葉がやや過激で、感情的に見えるかもしれないが、 これは「なぜ人身売買が許されるべきか」(2003年)という別の“SF”を受けているに過ぎない。 もともとは、偽春菜のような実際に人の形をした作品が根底にあった。 このSF的なテーマ自体は「アノニマス・コペルニクス」(2001年)に由来している。

もちろん現実的には大資本が現場のアニメーターを奴隷のように酷使している、という状況もあるが、 以下のファンタジーはその話ではない。人間全体(作品の作者)が奴隷の主、作品それ自身(情報)が奴隷、という見方だ。 人間と情報の対等な共存の実装モデルは「「コピーさせないこと」に課金するのが合理的な理由: 「コピーに課金」でなく」で読むことができる。

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これの最終回でアニメのなかから「放映エリア以外で、極めて特殊な方法でPCモニタ上などでごらんのみなさん」 「海外で勝手に字幕をつけてごらんのみなさん」「スタッフ一同になりかわり、本当に、すいませんでした」と呼びかけるのは、 もちろん、笑えるギャグだが、潜在的には、単なるギャグ以上のものを含んでいる。

一つは、結局のところ同時代性のある作品というものは、現実を取り込んでいく、ということだ。 「小麦ちゃん」に2ちゃんねるが出ただけで話題になったのは、もう過去なのである。 BPSのギャグも「同時代性」の最初の一歩にすぎず、 本当のわたしたちの現実からいえば「極めて特殊な方法で」ではなく「いつものようにして」PCモニタ上で見ているだけの退屈な日常だが、 その「当たり前」の日常をただ描いただけのものでも最初はインパクトがある。 最初だけは。

ところで、こうした現実の日常を描く作品は、 従来の方法で出版されると、ちょっとした自己矛盾を含んでしまう。 コピーが当たり前の日常。ということは、 「この作品を無断コピーすることなど、当たり前の日常でしょう」と作品のなかから、 作品自身が教唆する面があるからだ。

第二点はまさにその点とかかわるのだが、 「スタッフ一同」の立場からファンサバーに向かって「やあ」と声をかけると、 裁判になったとき、侵害側に有利になる可能性がある。 著作権侵害は親告罪だから、侵害者を知って6か月以内に訴える必要があるが、 この場合、制作者はファンサブが行われていることを認識しているという事実が、 侵害された作品そのもののなかに埋め込まれている。 証明可能な初回放送年月日とともに。 つまり、このアニメ自身が「一年も前に侵害の事実を知っていながら訴えなかったのだから、 もう訴えられない」と反論される原因になるかもしれない。 侵害された作品それ自体が、侵害行為を正当化する鍵を握っているというのは、 興味深くも、奴隷化されていた「主体」である作品たちが解放され独立していく方向性と一致する。 作品は「侵害」を受ける権利を保護されたいと願い、 事実、保護される鍵を自ら握っている。今の制度では「侵害」なのだが、それは結局ある種の仕方による著作物の「利用」である。 もし「おもしろい本」というものが自己意識を持てば「わたしは世界のみんなに読まれたい」と思うだろう。そういうことだ。 穏健な言葉で言えば、ある種の古い制度の解体であり、終焉を暗示しているのだ。

この構造は、広い意味ではGPLのような「自律的・自己保存的」なライセンス形態を暗示する。 「この作品がファンサブされることを知っていたが、黙示のライセンスを与えた」ともとれる。

もう少しゆるい枠組みで言えば、例えば「アーティスト+音楽作品」が今の奴隷で、レコード業界が奴隷の支配者ということになる。 消費者がその作品のために5000円払えるなら、 消費者の心理としては一応「アーティスト+音楽作品」に5000円の価値があるわけだが、 実際には支払った金の大半は別の関係ない人のふところに入る。 「アーティスト+音楽作品」という奴隷を支配している主人のふところに。 5000円の内訳も、アーティストが創作活動に使った費用はたいして入っていない。 円盤輸送のトラック代とか、物理店舗の地代とか人件費とか。 もちろんアーティストも印税といって何パーセントかは受け取るのだが、これは本来的に望ましい形ではない。 他に流通・プロモーションの手段がなかった時代ならいざ知らず、今となってはこんな無駄に何の意味もないし、 無駄なばかりの中間寄生者の利益を保護するために著作権法を改定するなど、本末転倒もはなはだしい。

著作権法は「著作者、著作物、その利用者」ひいては「文化」を保護するのが第一だ。 ところが「著作者+著作物」を奴隷化してそこから絞り取る「法益に照らして有害なもの」を保護してどうするのか。 法律の目的上、自己矛盾している。

早く何とかしないと、アニメも映画も音楽もますます衰退してしまう。

こう考えると、「勝手に字幕をつけているみなさん」と作品のなかからスタッフが親しげに声をかける「作品の版権的な自己矛盾」が、 図らずも、こうした自己矛盾と重なってくる。 実際に制作した「スタッフ」が著作物の権利の主体になれないのなら、 無権限で字幕を作っている立場と五十歩百歩ではないか。

奴隷の主たちが「奴隷を解放したら自分たちの生活は成り立たなくなる」と信じ込むのは勝手だが、 結局、長期的には、世の中は自然のことわりに従って動いていくだろう。ただし、それは長期的にはそうなるだろう、 という勝手な予想にすぎず、「そうなるべきだから、今すぐ他人の奴隷を自由にしていいのだ」という意味ではない。

それにしても、これだけBTが普及してファンサブについて日本語での記事も少なくないわけだが、 BPSのあのセリフを書いた人はどういうところで知恵をつけたのだろうとか考えてしまう。 思い当たるふしがないわけでもない、と言わざるを得ない。

一般の放送枠で従来のようにアニメをやるのは、すごく金がかかると思う。 もしBPSが、続編をやるつもりがないのに、あえてああいう「ここから話が始まる」という終わり方をしたのだったなら、 いっそ、最後にこう言ってほしかった。「この続きはSSでお楽しみください」と。

この記事はここで終わるが、この話はここで終わらない。

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