資本主義社会は、人が原則として金銭的損得で動く、という仮定に立脚してきた。 しかし、オープンソースでは、その仮定が成り立たない。
今、世界中で自ら進んでただ働きするプログラマが増えている。 突然、こんなことを言っても信じられないだろうが、 あなたが今見ているこのページも、 そういうただ働きによって開発されたアパッチというプログラムによって あなたのパソコンに送信されている。
アパッチはアパッチ・ファウンデーションという組織によって開発されている。 この組織には世界中の優秀な数百人のプログラマが参加しているが、 給料をもらっている者は誰もいない。 世界的規模の同好会のようなものだ。 参加者の多くは、週末等のプライベートな時間を使ってアパッチの作業をしている。 そういう人たちが、実際に高性能のプログラムを作ってしまったのだ。
インターネットでは、このような裏方的な仕事をするサーバという種類のコンピュータがたくさん使用されているが、 そのサーバの主要な技術の大半がただ働きで作られている。 そこまで言っても信じられないだろう。 「そんなにただ働きする人が大勢いたら世の中がめちゃくちゃになってしまう」 と思うだろう。 実際、めちゃくちゃになっている。
マイクロソフトは、ただ働きのために自社の製品が売れなくなってしまうことを本気で心配している。 そのためにいろいろな手を打っている。 当然、そのただ働きする人を利用しようという企業もある。 IBMがその筆頭だ。 レッドハットというベンチャー企業は、 ただ働きでできたソフトウェアを自社の製品として販売している。 日本の経済産業省も大手電気メーカーもこの動きに対応しようとしている。 コンピュータ業界は今「オープンソース」というただ働きするプログラマたちによって、 かき回されていると言ってもいいだろう。
この動きは突然初まったものではない。 30年以上前から、よりよいコンピュータを開発するための技術的な努力の中から、徐々に進化してきた。 最初はユニックスという基本ソフトから初まった。 このソフトは、ある研究所で開発された実験的なソフトだ。 これが多くの大学で使われた。 もとから優秀なソフトだったが、使われていくうちにますます改良されて、 非常に実用的なソフトになった。 今、インターネットのサーバは大半がこのユニックスという基本ソフト、 または、それに非常に大きな影響を受けたソフトで動作している。
このユニックスが改良されていく過程で、 プログラムの開発の方法の常識も変化していった。 文書作成にたとえると、添削を重視する考え方が主流になった。 従来は、1000行の文書を作るなら、とりあえず全文を誰か一人(または少人数の閉じたグループ)が書いてから、添削を行なった。 誤字を直したり、文章の流れが悪い部分を直すような作業を行ない1000行の文書が完成する。 添削は補助的な作業だった。
これに対して、ユニックスは改良されながら進化した。 1000行の文書を大勢の人が少しづつ添削して1万行の文書ができたようなものだ。 人数をかけてこういうやり方をすると、 非常に高性能なプログラムができることがわかってきた。
この発想は企業の中には無いし、なかなか企業には受け入れられない。 添削するためには、ソースコードというプログラムの中身を外部に公開しなくてはならないからだ。 実際、ユニックスは、ある所まで進化してからソースコードの公開を取りやめてしまった。 ソースコードという中身を見せると商品にできないからだ。 それによって外部の者には添削できない普通のソフトになってしまった。
しかし、大勢で添削しながら開発するというユニックスの開発スタイルは多くのプログラマに支持された。 この方法がいろいろな形で試みられ、 最終的に、誰でも添削して使える新しいユニックスができあがった。 それがリナックスである。
「大勢のプログラマが添削しあって種を膨らませて開発する」という方法は、 技術的に有効であったので多くのプログラマはそれに従った。 しかし、これはプログラムを商品として独占的に囲いこむという、 企業の考え方とは両立しない。
プログラマは技術的な興味が先行して、 このような社会的、経済的な位置付けに無関心な者が多いが、 この緊張関係に意識的に取り組んだ者が二人いる。 R・ストールマンとE・レイモンドである。 この二人は、このような開発スタイルを社会的、経済的に位置付けて理論化した。
最初にそれを行なったのはストールマンだ。 ストールマンはFSFという財団を作り、 多くのソフトウェアを開発しながら、 自分が開発したソフトウェアが囲いこまれないための権利を文書として明文化した。 その権利書をGPLと言い、その権利によって守るべきソフトウェアを「フリーソフトウェア」と呼んだ。
ストールマンは一方の極端な考え方を代表している。 そのような正しい開発の方法を何より大事なものと考えている。 もう一方の極には、これを利用して金儲けしたい者がいる。 つまり、ただ働きの成果を商品として販売したい者だ。 ストールマンは、そういう者がプログラマを出しぬこうとすることを非難した。
そこで両者の中間をとろうとしたのがレイモンドである。 レイモンドは、理想的なソフトウェア開発のあり方についてはストールマンとほぼ考えが同じだ。 しかし、営利企業と対立するのでなく、営利企業をまきこんでその方法を普及させるべきと考えた。 対立して非難しあうのは無益であり、お互いにとってプラスになる妥協点があるという考え方だ。 そして、OSIという組織を作り、OSDという文書を作成した。 こちらの考え方を「オープンソースソフトウェア」と言う。
レイモンドは、「オープンソース」の考え方を受けいれるように、 多くの企業に働きかけ成功した。 IBMやサンマクロシステムは、マイクロソフトとの対抗する戦略的な意味合いもあって、 「オープンソース」を自社の製品戦略の中心に据えつつある。
「オープンソース」というただ働きを理解するためには、 これが草の根的にたくさんのプログラマに支持されていることを理解しなくてはならない。 「オープンソース」は楽しいのだ。
今の資本主義経済は、お金を中心に回っている。 お金で人を支配する仕組みと言うこともできる。 札束でほっぺたを引っぱたいて人を動かすことで成りたっている。
「オープンソース」では、ただ働きであることそれ自体が強みだ。 札束で引っぱたいても動かない。 最も成功したオープンソースプロジェクトであるリナックスの中心人物、 リナス・トーバルズは自分の著書に「単に楽しかったから」("Just for fun")というタイトルをつけた。 この意味を理解しないと、 ただ働きのプログラマを利用することができない。
技術者には、より良い物を作りたいという本能がある。 優秀な技術者ほどその本能が強く、その本能に従って動く。 ソフトウェアを作るということには、独特の困難があって、 どんなに優秀な人でも一人で全てを行うことは不可能だ。 良い物を作りたいという本能が、 たくさんの人と共同作業をしたいという気持ちにつながっている。
そして、実際に多くのオープンソースプロジェクトは、 インターネットによって世界中のさまざまな国の開発者が共同作業している。 その多くが企業で働くプログラマだ。 彼らは企業の中で稼ぐための仕事をして、 残った自分の時間をオープンソースのために使う。 そのようなプログラマが何万人、何十万人といてさらに増え続けている。
個人のマニアックな「楽しみ」が動機となって、世界的大企業が振り回されるような事態が起きているのだ。 しかも数人の天才や変人の話ではない。 ごく普通の人が大勢参加しているからこそ、大きなうねりになっているのだ。
「オープンソース」も「フリーソフトウェア」も法的な武装をしている。 両者とも著作権をベースとして(あるいは「逆用して」)、開発者の自由を守ろうとする。 例えば、フリーソフトウェアでは、自由を保証しつつ、 自由を逆手にとられて第三者がプログラムを「自由」に独占的に支配することがないように、 心を砕いている。端的に言えば「悪意の第三者に著作権を主張されないために、そしてそのためだけに、自分の著作権を主張する」のであって、 自分の経済的利益のために権利を主張するのではない。 そして、それが営利企業と対立関係にあることを強く意識しており、 また、いくつかのトラブルを経験して、その立場を研ぎ澄ましている。
そのような「自由への権利」は社会的に完全に認知されてはいないが、 その分だけその権利の侵害には神経をとがらせている。 これは先鋭的な「フリーソフト」で顕著であるが、妥協的性格のある「オープンソース」でも本質的には共通している。
誰かが開発者側の権利を侵害したりすると、 対抗措置として世界的なプロパガンダに巻きこまれることになる。 その開発者側の意図を理解した上で、法的な意味あいを知っておくことが重要である。
このような動きは、新しい社会形態の前触れととらえることもできる。 コンピュータ産業の枠を越えて、他の産業に広まっていくことも予想される。
われわれは資本主義社会が確固たるものと考えがちであるが、 資本主義社会は、大半の人に経済的合理性があるという仮定を基盤としている。 札束で引っぱたけば誰でも動くということだ。 オープンソースという現象の中で、ある範囲に限っては、その仮定が成り立たなくなっている。
コンピュータのプログラムはインターネットを使って、送受信できる。 「オープンソース」がそのような技術的な特殊な要件に依存していることも確かだ。 したがって、直接的にこの方法が他の物理ベースの産業に波及することはありえないが、 社会システム、経済システムの地殻変動の予兆、という観点は重要だ。
より具体的にオープンソースソフトウェアを導入する場合にポイントとなるのが、 無保証の原則だ。 オープンソースソフトウェアは、無償であるかわりに無保証で提供される。 問題があった場合は自分で解決しなくてはならない。
必ずしも独力でプログラムを修正しなくてはならないということではない。 必要なのは主体的に情報を集め、あるいは発信する、ということだ。
オープンソースソフトウェアは中身が公開されているので、 ウェブページやメーリングリスト等を通じて、 情報を収集し、あるいは質問すれば、ほとんどの問題を解決し、あるいは回避することができる。
ただし、これは有償で提供されるサポートやサービスと違って、 札束で引っぱたいて人を動かすものではないことに留意する必要がある。 「問題の発生」は情報の提供であり、 その解決を通して、開発のプロセスに参加するという態度が必要だ。 「添削」仲間が増えることは歓迎するが、 一方的にサービスを受ける消費者的な態度は好まれない。
こういう発想に抵抗がある人は、オープンソースを避けた方が賢明かもしれない。
現在のオープンソースソフトウェアの動向として、技術を持っている人はソフトウェアの成熟に従って開発や展開へのモティベーションが下がっている。 一方、メディアで高機能フリーソフトとして紹介されて使うようになったカジュアルユーザはただコンシューマとなってしまう。 全体として元気が無くなっているようだ。この構造はWindowsのベンダ-コンシューマという消費構造と同じである。
オープンソースは多くの人を巻きこんだ大きな社会運動ととらえることもできるが、 政治的、宗教的な運動のように一人の指導者や特定の理論から生まれたものではない。 レイモンドやストールマンのように理論的な主張をする者もいるが、 これは多くのプログラマの実感や開発のノウハウをボトムアップで吸いあげて後づけで理論化したものに過ぎない。
このことから、これが簡単には消えるものではないことが予想できる。 誰かが論破されたり、ある企業が倒産したら終わってしまうようなものではない。 普通のプログラマがプログラムを作る時に、実感として誰でも感じることがベースになっている。 そのようなエネルギーは形を変えることはあっても消滅することはあり得ない。
「オープンソース」に対する観点もさまざまなものがある。 かなり深く関わっている者同士でも、基本的な意見の対立がいくつもある。 それもボトムアップ的な運動の特徴だろう。 特定の指導者が「裁定」すれば結論が出るものではなく、 長い期間をかけて自然と解決していくしかない。
オープンソースとは何か。 オープンソースはどうあるべきか。 こういった問いに、確定的な答はない。 オープンソースについて何をどう言っても、必ず反対意見がでる。 そのような幅広さも重要な性質である。
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