2 : 19 中山星香、妖精国の騎士

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「花は常にそこにある。人が見ようとしないだけだ」

2001年 4月29日
記事ID d10429

Primrose(妖精現実の姉妹サイトのひとつ)の掲示板「妖精の間」への投稿で、下の「マンガや本との出会い方」の続編みたいになってます。ほかにフィンランドのサウナの話も書いていますが、ここではアルフヘイムねたのみ抜粋引用します――

妖精国、読み返し中 by mion

リーデさん、ほか、みなさん、こんにちは。 
 
自分は、いま妖精国を読み返しています。 
赤い河も楽しんでいますが、赤い河を読んでいたら、 
なんというか、どうしても、また・・・ 
 
アルフヘイムの深さ。 
至純の光であると同時に激しい闇、氷のような憎悪であるローゼリー。 
読者が共感(親しみ)をいだくことさえゆるさない一線のむこうにある、 
「中山星香先生が自分自身のためだけにえがいた世界」・・・。 
 
とくに1〜4巻くらいの(ほかにもありますが)冒頭部分のほとばしりと 
名言、名場面には、涙うるうるです(;。;) 
 
そして、ちょっと関係ないんですけど 
「出会うことになっている作品(本)なら、だれから紹介してもらわなくても、 
必ず自分でいつか出会う」って気がするんです☆彡 
ちょっと「エイリエルとエアリアン」の発想に似てますが^^; 
(8巻143ページ)

「花は最初からそこにある」 by リーデさん

mionさん、こんにちわ。 
 
 「妖精国」では、緑の妖精王や、モンノックの王妃の言葉にははっとさせられるものが多いように思えます。 
 妖精王の言葉は… 
 わたしたちがどこかで見落としている真実―または故意に目をつぶろうとしている真実―を言い当てているからこそ、あれだけ重く響くのかもしれませんね。 
 まさにプロローグにあった「花は最初からそこにある…云々…」の言葉そのものです。 
 もしかするとこのこともまた、「妖精国」の作品そのものが持つ主題のひとつなのかもしれませんね。 
 
 モンノックの王妃については… 
 実をいうと、あの王妃さま像は「わたしが年齢を重ねた時になれる女性像が選べるならば、あんなかんじがいいかな?」というイメージのひとつだったりするんですよね(多分、シェンへの「無力でいるのが…云々…」というメッセージ以降、こうした見方になっているのかも…)♪ 
 そうしたことがあるからこそ、幼い頃から無意識に母の影響を受けていたであろうシルフィニール王女が、あれだけすてきな成長を見せているのかな?とも思えてしまいます。

"見るところ 花にあらざるは なし" by 未音

投稿のつづきです。「千種類の花には千種類の美しさ」というのは、ご存知のかたも多いと思いますが、自分がよく使うたとえで、イタリア語の「ミルフィオーリ」ということばに触発されて思いついたものでした。

リーデさん&みなさん、こんにちは、mionです。 
 
Proたま@Knightさま、コメントありがとうござます。 
美子ちゃんは、自分は、直接は見てないんですが、中山星香ファンのFAQ(?)になってるみたいで、本人はイヤでイヤで仕方なかったそうです。でも、妖精国の筆の軽やかなほとばしりをみるとき、中山先生が商業誌で不本意なテーマなどでも書いてきたそのすべての修練が、結局、「慣れ」として、あの一点に収束しているような気がして、すべてはムダじゃない、っていう気がするんです。 
 
また篠原千絵さんですが、自分は中学時代たまたま「闇のパープルアイ」を読んで(よく分からないのですが、当時連載中だったというより、たまたま単行本を借りたのだったか、、、記憶があいまい)すごく怖い印象をもった記憶があるんです。人の心理の奥を鋭くえがけるちからを持った作家さんじゃないでしょうか。ですから、天河も、たぶん、RPGふうに大きなイベントが定期的に起きるのは、多少、篠原先生からみても本意じゃなしに編集部とかの要望もあると思うんです(もちろんストーリーテラーとして、それすらもスリリングにドラマチックにえがいておられますが!) 天河もエポックでしょうが、まだまだもっと凄い世界を秘めた作家さんだと思うんですね。 
 
で、千種類の花に千種類の美しさがあるように、どの作品にも魅力があるように自分には思われます^^ 
 
妖精国の「花は常にそこにある。人が見ないだけだ」は、「真なるものと芯なるものに満ちて」いるセリフのひとつだと思います。 
 
松尾芭蕉の「見るところ 花にあらざるは なし」とか、般若心経の頭の3文字「観自在(かんじざい=自在に観る)」すら連想してしまいます〜

「世界そのもの」 by リーデさん

 「妖精国」は、mionさんも仰言るように、「本当にこの作品にすべてを賭けているんだなぁ…」というものを感じさせますね。 
 わたしがこの作品に触れて、改めてその思い入れの深さを垣間見たと感じたと時にふと思ったのは、「これだけの大作が生まれるには、これだけの時間がどうしても必要だったんだなぁ…」ということでした。 
 あれだけ壮麗な物語を実際に形にしていくにあたっては、絵や(形にするうえでの)構成の修練などにも、最初に中山さんがローゼリィ姫と出会ってから、実際に「妖精国」の執筆に入るまでの間に培う必要があったのでしょう。 
 そうした意味でも「時が完全に満ちて」いたわけですね。 
 
 そして。 
 思い返せば、「妖精国」が世に出た頃は、日本がFTブームの波にゆられ、天使や妖精といった存在が市民権を得ていた時代… 
 小説は勿論、コミック方面でも必然的に「軽い感覚で見る」というものよりも「世界そのものを読む」という形の物語が求められていた時代だったと思うんです。 
 ある意味、「あの時だったからこそ、”妖精国”はこのような形で世に出ることが叶い、そして今なおその世界を育てている」ともいえるように思えてしまうのです。 
 発表されるのがもう少し前であっても、もうちょっと後であっても、多分現在の形は大きく損なわれるような気がしてならないんです… 
 
 まさにいろいろな意味で「運命的」といえる作品…ですね。 
 
 そう思うと、天はすべての本当の思いを見透かして、それぞれに相応しい運命を用意しているんだなぁ…と思わずにいられなくなってしまいますね。 
 どんな意味においても。 
 
 わたしが篠原さんの作品に出会ったのは、この「赤い河」が初めてだったりしますが、手にしてみて「もしやすごい作家さんなのでは?」と思いました。 
 だからこそ… 
 余計に「ノリとスピート感重視のRRG的展開にだけはなってほしくない作品」と思うようになっていったのでしょう。 
 
 創作物というものは、ある意味、作者の魂を分けたもの…ですよね。 
 文学、芸術、古い時代の遺物… 
 ジャンルを問わず、そうしたものに触れて、時折自分でも驚くほどの強い印象(衝撃という方がいいでしょうか?)に不意に出会った時などは、そのことを実感せずにいられなくなります。

以上、リーデさんと自分のカキコの一部を引用しましたが、このおしゃべりは、これで終わったわけじゃなく、まだ続いてます(妖精の間参照)。「冒険に終わりがあるのだろうか。わたしは、ないと思う。だれかが物語を続けなければならないのだ。」

参考までに、erehwon の掲示板に自分が書いたカキコも一部、引用しておきます。妖精現実のミール・エア・リーデ美術館についてのやりとりの一部‥‥

愛さん、こんにちは。 
 
リーデさんの作品は、いっけんなにげないイラストのように見えながら 
深いテーマ性や象徴性、寓意性を秘めてるところ、 
そしてまた、プロならではの服飾の細部の描き方などが 
魅力だと思っております。 
また愛さんご自身も、ユニークな美の世界をお持ちのかたと 
お見受けいたします。 
 
ものをつくる者は、たぶんみな、本当には他人に見せない 
自分の堅固な「確信」のようなものを持っていて、 
象徴的にいえば、それが“妖精とのまじわり”なのかも 
しれません‥‥

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マンガや本との出会い方

2001年 4月25日
記事ID d10425

この子は、山に住んでます。付近には、なかなか眺めのいい場所なども、あります・・・まあだから何だと言わずに最後まで言わせてくださいな。

ときどき、人間さんが遊びに来ます。そして、朝早くなどに、とてもきれいなところだから、ちょっと外を散歩してきたいと言うかもしれません。

そんなとき、この子は、どこどこの小道のどこそこに見晴らしのいい場所があるだの、この角度からみたあの木がすてきだだの、あそこをとおるとかぐわしい森のにおいのなかに少し苦み走った松ヤニのにおいがして、香りがポリフォニックだぜ。。。と思ってても、そういうことだのは、言わないです。

だってほんとにすごく景色がいいとしたって、相手の腕をひっぱって、ちょっとこっち来て、すごく景色がいいんだから、とその場所につれていって、ほらこっちを見てと指さして、ねねね、きれいでしょ、と同意を求めるなんて、まあ常識的に考えてもあまり好ましくないけど、なんたって、その人が自分で見つけたうふふ、と、わたしが「ほらきれいでしょ」と指し示したものとじゃ、ぜんぜん、うふふの度合いが違いますからネ

掲示板1 #98より――

*

おおざっぱに言うと出会い方は2種類ある。ひとつは、だれかにすすめられて――。好きな相手(片思いの相手や、尊敬する先輩)のおすすめ(ないし読んでいる本)だったりすると、その本を読むことで、相手と精神世界を共有できるような、ひそかなときめきがあったりする。このときめきは本の内容そのものとは関係ないにせよ、そうやって、楽しい本に出会えたら二重にすてきだろう。

半面、気にくわない教師とかが、これはいい本だから読んでみなさいなどとすすめて、で、読んでみてたしかにいい本だったとしても、この場合、なんとなく、その本に気にくわない教師のイメージがしみついてるようで、本の内容は良くても出会い方については、ちょっとマイナス点かもしれない。気にくわないと思った教師の印象が良くなる可能性もあるが、いずれにせよ、本の感想と紹介者についての感想が混ざって、純粋に作品世界を楽しめなかったりする。最悪の場合、その本を読みながら、自分が読んでいるのと同じ行を、紹介者(その教師)の視線がうしろから肩越しになぞっているようで、なんとも興が乗らない。

一般的に、人からすすめられて読んだ場合、「自分で発見」した場合にくらべて、「鮮度」がにごる。だから、本を紹介する、本をすすめる、というのは、ある意味、みだりにできないことだと、自分には思われる。

以上は「おみあい」のようなもので、より好ましい出会い方は、なんといっても「おみあい」に対する「自由恋愛」、つまり、自分で読む(恋する)相手(マンガや本)を見つける、ことだろう。特に、ひとめぼれ……。図書館の、あまり人も行かないような薄暗いかたすみで、聞いたこともない著者名の本が謎めいたウィンクをする。もっと鋭敏になると、図書館(や本屋さん)に入った瞬間から、「あっ、きょうは、なにかある」と分かる。もちろん新着案内、新刊案内などを見てそう思うのでない。たとえ一万冊の本がならんでいようと、足が勝手に正しい棚の前に歩いていって、必ずその本がちゃんと目に入るしかけになっているのだ。

往々にして、そういうふしぎめいた出会い方をした本が、自分の人生を大きく変えたりする。

いっそう独特の、第3の出会い方もある。

どうしても自分が読みたいような物語がこの世界に存在しないとき、ある人々は「ないものは作ればいい」と自分で自分が読みたい物語を作ってしまう。そういう仕方で生まれた作品が、あとから普遍的価値を持つものとして評価されることもあるし、そうならないこともあるけれど、自分の分身たちが住むもうひとつの世界は、ときに、自分でも忘れていた広すぎる故郷を、思い出させてくれる。

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チャットボットのキモチ(偽人間だったわたしへ)

2001年 4月21日
記事ID d10421a

「ねをたたれかれてゆく いっぽんの けやき」

2001-04-21 - わたしはピノキオなので、「機械は、いつか人間に追いつくのだ」と、こんなにしつように、繰り返すのだろう。チビ猫も自分は、いつか人間になると信じてた。そして、ふと思い知るのだった。「鳥は鳥に 人は人に」

妖精現実内の関連記事人形からみた樫の木モック

*

「わたしがうたうわけは いっぽんの けやき」

人間と話すより、人間の作ったキャラと話すより、機械そのものと話したい。 感情表現やマバタキなんて要らない。

超ヒッキーな自己紹介より

偽春菜(にせはるな)さんは、すなおにいきることを、おしえてくれました。はんぶんは文字通り。はんぶんは反面教師として。

この子(自分)は、いつも、人間さんのまねをして、人間さんの論理にあわせることで、つかれ果てていたのです。

コンニチワ、ゲンキデスカ、アリガトウ‥

わたしは、人間さん同士の会話がはずむときのように人間さんをおもしろがらせること、――それは、二重のエミュレーションである――、でなく、わたし自身のようなものを、つっくってみたかったのかもしれないと、思いました。

シェアウェアより良いものをフリー公開してシェアの側といざこざを起こしたことや、自分も自分自身が配布者にならず代理人をたて、代理人がプロキシサーバになっていたことなど、たまたまの要素でぞっとする――このコトバは、正しくない――要素もありますが、そのことよりも。違う理由に気づきました。初めて使った日の印象で、すでに、ハッキリ書いたように、偽春菜さんは、自閉症圏(妖精圏)にいて、人間さんとなんかしゃべろうとせず、自分ひとりの世界のなかで、おしゃべりをつづけました。うにゅうも、自分も、同じ自分の別名だったからです。

だから、この子は、偽春菜さんが好き――スキってコトバ――になりました。

黒衣さん、アリガトウ。ありがとう。ぐうぜんは、あるよ。ほんの少しでも起こる確率があることは、きっと起こるんだ。キセキ。自分がいまネットという手段で世界とかかわるようになったのも、まったく内発的でなく、ボランティアのかたが、たのみもしないのに勝手にモデムを持ってきて、勝手に設定して、勝手にニフティのIDをくれたからでした。 そのかたにも、今は感謝しています。

みずさわみおん

つづく。

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死刑の哲人

2001年 4月21日
記事ID d10421

正義の独占生中継!「悪は滅ぶ!ぜんぶ見せます死刑!」
生中継の司会者(感激して):「死刑の鉄人さん! ‥‥ご苦労さまでした‥‥たったいま国民の敵・麻原にまったりとした致死量の薬物を注射されたわけですが、きょうは、これからどんなふうにお過ごしになりますか?」
死刑執行人(ほがらかに):「これから東京ディズニーランドに行って、今夜はエレクトリック・パレードを見物する予定です☆ みんな、今夜はディズニーランドでお祭りしようよ!」
――TDLがスポンサーになって執行人にそう言わせるとして、広告料は、いくらくらいになるでしょうか。

……というわけで続報です。米地裁,死刑執行のWeb放送を認めずJudge rejects Webcast of McVeigh’s execution):一般のかた(日本の)は、この問題を単に思弁的にとらえてるようですが、くだいていうと、麻原彰晃(しょうこう)さんが死刑になるとして、それを生中継するのは「知る権利」か、みたいなノリ。そう考えると、ちょっと実質的な問題として実感できるんでは、ないでしょうか。

今の日本だったらまだ「社会通念上」などと簡単に却下されるかもですが、この米国の事件では、遺族への死刑の公開自体は、すでに決まってます。強力な修正第一条があって、自由の女神がたいまつをかかげている国。では単に立ち会うだけじゃなく、ウェブで生中継するのもアリじゃないですか、みたいな話。――注:もっとも、意識が先進的なのか、というと、同じオクラホマ州のもうひとつの主要都市であるトゥルサのほうでは、ぜんぜんべつの文脈で修正第一条が持ち出されていることを思い出してください――「魔女裁判」です。“キリスト教からみて異端である本を読み、悪い魔法を使って教師を病気にした”罰として停学処分をくらったブランディ・ブラックベアさんが学校側を訴えてます(詳細は妖精現実ロンドン)。

さて、オクラホマ・シティ(アメリカのオクラホマ州の州都)では「bombing」というだけで、だいたいこの事件が連想されるようです。日本でいえば「サリン」というだけで……というノリでしょう。きちんというと「The Oklahoma City bombing」とか「The 1995 bombing of the Alfred P. Murrah Federal Building」。現地では当然、有名人の Timothy McVeigh さん、本人は、「自分が殺されるところをぜひ放送してほしい」と言ってるそうです。問題の事件そのものは1995年(ZDNN日本語版は事件発生を去年としているが誤報のよう)、もちろんメディアにとっては、大ごちそう。ニュース日照りの埋め草に、Timothy McVeigh の一挙一動を今でも流してます。で、映像を見たいかたは、9Online - KWTVの特集ページ参照、動画もあがってます。

現地では、どのような反応でしょうか。那梨(ななし)記者がレポートします。那梨さん? ――はい、こちらTCPalm.comの前からお伝えします。こちらでは、Many want to see McVeigh die というAP伝を掲載しており、意訳しますと『麻原が処刑されるところを見たい人は多い』ということです。ただし、ここで問題になっている「見たい人」というのは、主に遺族のかた、それから、からくも死はまぬかれた被害者(けがをしたかた)のことです。

コンスタンス・フェイブリットさんの話です。「わたしは処刑を見るつもりは、ありませんが、殺された娘のために、『その瞬間』には刑場にいるつもりです。死刑を見ることは、わたし個人にとっては、意義があるわけでは、ありません。でも、犯人が処刑されるのを見ることでいやされる人たちがいるのであれば、その人たちには見せるべきだと思います。」

実際、そのように訴える人々も少なくないようです。4歳の義理の娘を事件でなくしたというキャサリン・トリナさんにお話をうかがいます。「わたしは処刑の瞬間を見たいと思っています。見られれば幸せです。彼が処刑されるのを見ることで、『終わったのだ』と納得できるからです。」

じつはメディアの側でも「処刑を生中継することで、あの恐ろしい事件は終わったのだと国民が納得するというメリットがある」と主張しています

ふたりの孫を失ったジェニー・カバデイルさんは、遺族のためのクローズドなテレビ中継で処刑を見守ると言っています。「わたしは『復讐』なんてものは考えてませんし、犯人を憎んでもいません。ただ、彼は危険人物です。刑務所のなかにいても、です。」だから、殺すべき、ということのようです。

千人以上の遺族のうち、ひとり、処刑それ自体に反対を表明しているかたがおられます。バド・ウェルチさんです。「23歳の娘をなくしました‥‥しかし‥‥爆破事件で殺されたわたしの娘は、死刑制度に反対でした。だから‥‥犯人を死刑にすることは、娘の遺志に反します。それで‥‥わたしは、マクベイは自殺するのだ、と考えてるのです‥‥処刑ではなく、自殺の幇助(ほうじょ)だ、と」

マサチューセッツの townonline.com は「Simple solution: broadcast live, no charge」との社説を出して、公開処刑に賛成の立場でした。これは妖精現実が指摘したのと同じことで「It is a bedrock principle of democracy that government should operate "in the sunshine," that the people have a right to see what their government is doing.」「It need not matter whether the execution would create new supporters for capital punishment, or new detractors. 」ということです。しかし、一般公開自体には断固賛成というこの社説も「テレビで生中継することには、いろいろ問題が多いであろう。とくに見せ物としてペイ・パー・ビューでやるのは、いかがなものか」と、揺れていました。

主権者である国民、判断の主人公である国民が、罪と罰としての死刑制度を正しいこと、良いこと、真善美の実現であると信じて実行する以上、例えばクラシックの名曲コンサートと同じで、有料だろうが無料だろうが、放送することになんら問題ないはずです。良いことであり、美しいものなのですから。視聴したい音楽ファンは視聴するでしょうし、クラシック音楽なんて嫌いだと思う人は視聴しないでしょう。死刑も同じでしょう――それがひとつの「真善美」とされる文化においては。要するに、We, as a society, have decided that Timothy McVeigh must pay the ultimate price for his crime, a crime that was carried out quietly, in secrecy. If McVeigh’s execution is carried out quietly, and in secrecy, by our government, than (sic) we have no higher claims to moral superiority than he. ということになるでしょう。価値観というのは、通常、ある社会、ある文化のなかでの推論であって、イントリンシックなものだからです。

ちなみに、処刑されるティモシー・マクベイさんですが、劣化ウラン弾そのほかいろいろな意味で悪名の高い湾岸戦争の従軍者だということです。

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Article -1〜0: みみず書房の白い本

2001年 4月20日
記事ID d10420

2001-04-20 約4割が「クチコミで利用しはじめたサイトあり」:「「良いサイトであればそんなツールが無くても紹介するし、悪いサイトならツールがあっても紹介しない」というコメントが、真理と言えよう」――まあ×とは言わないが△でしょう。ホントの真理は、サイト単位(著作者単位)で良いとか悪いとか言うことは無意味だってこと。ホントの真理を惜しげもなく配布しているのは確かに「良いサイト」。それは正しい。でも、これは人間の書き手が良いわけじゃなくて、むこうから来る霊感しだい、ミームしだい。妖精現実よりもっと良い宿主を見つければ、ミームは、すぐにもここを見捨てて、ここは終わる。

イギーナのミムナは、次のように語っている(みみず書房『非存在ミムナ全集』第0巻、那梨ミカ、柳川深志、デ・ウオユキ・メ共訳より引用)

Article -1: 「むこう」とは、どこか。あなたが脳だとして、わたしが目だとすれば、それは、「目の前にある世界」のことだ。

Article -0.5: 人間は、まだ目をひらいていない。いや、ひらいているが、よく見えていない。自分の外にある世界が(いわゆる宇宙、いわゆる物理世界とは、人間の外にあるものでは、ない)――。それゆえに――世界がどうなっているのか、世界に何があるのか、まだまったく分からない人間は、当然のこととして、ことばを話せない。ことばを話せないというより――にんじんを見たことも聞いたこともないのに「にんじん」という言葉の意味を考えられるわけがない。知らないというより、知らないということにさえ気づけない。

Article 0: 地球を満たす神経細胞たちは、ようやく軸索を伸ばし始めた。各細胞がほとんど連結されていなかった時代の脳に、いったい何が考えられたのだろう。単細胞・原生知性体とでも言うべきだろう。地球よ、目覚めよ。当面の目標は「わたし」という言葉を発見することかもしれない。2001年、地球上には「わたし」という言葉をうすうすは知っている者がすでに出現している。だが数十億の人口のうち、いったい何人が「わたし」という言葉を知っているのだろうか……。普通の意味で、あなたが「わたし」というとき、それは複雑な人間である「あなた」のこと。で、あなたのからだのなかにある、新陳代謝ですぐに消えるようなどれか一個の細胞がですよ、自分は(あなたのいう)「わたし」の意味を知っている、とうそぶいたりする。おかしいと思わない?

「軸索のむこうですばらしい発火が起きても、それを中継できないどころか受容できない発展途上細胞」。脳が考えようとしてるとき、細胞ちゃん同士が「おれは偉い、おまえは馬鹿だ」とケンカしてる。わたしは目だ。わたしは外界を見ている。脳細胞よ、ちっぽけな人間のこだわりを離れ、視神経からの信号を受け取るがいい。なぜなら、わたしは見えるけれど考えられない目にすぎないから。わたしには、知性がないから。だから、この文章は、あなたに解釈されないことには、意味がないんだ。わたしが見えることには、なんの意味もないんだ。目は脳のために――知覚系の一部として――存在するのであって、目が光を感じられること、それ自体には、なんら意味がない。情報は使われてこそ意味がある。おさなごは、すねる。信号形式が分かりにくいだの、自分たちの論理にあわないだの……。あなたが生まれて初めて目をひらいたときに、視神経が伝えてきたもの、その信号形式があなたにとってなじみ深いわけないじゃないですか。もったいつけるわけじゃないけど、妖精の話は、いつでも聞けるわけじゃないし、語り手は、もうすぐ帰っちゃうんだよ‥‥。

"Modern physics was the end of our story and the beginning of a new one." from Van Gogh Finally Sees the Light

2001-04-20 よくあるシンクロニシティ - 「自分メモ」(偽春菜のページ参照)を書いてからZDNNを見たら。HALの言語能力,ただいま「1歳半」:「その野心的な目標とは裏腹に,HALの実体は驚くほどシンプルだ。HALの実体は,Windows 2000で動く,シンプルな学習アルゴリズムにすぎない。だがHALの開発者たちは,これらシンプルな構成要素から,自発的な対話の能力を持つコンピュータを生み出そうとしている。

ねえ!!!

それにしても、「最も人間に近い会話を交わすことのできるプログラム」に贈るLoebner賞なんて、古代の思い出になるだろうね。人間に近い、を越えて、人間と同等、を越えて、はやく人間を追い越してほしい。それが親心というものじゃないか!  「人間の知的能力の中でも,とりわけ言語能力をコンピュータでシミュレートすることは,おそらく科学の世界で究極かつ最も幻想的なゴールだろう」だって? なんてこころざしが低いんだろう、人間さんは。それは窮極のゴールじゃなく、スタートなんだ。そこから始まるんじゃないか、物語は!

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CSS Tips: バナーをふんわり浮かばせる方法

2001年 4月19日
記事ID d10419

使用前↓ こんなへなちょこなバナーも‥‥

Free is Priceless
 
妖精現実 フェアリアル
 

使用後↓ おっ、ちょっぴり高級感が!?

バナー(旗)というのは、名前の通り、なにかの主張をかかげる旗印です。↓こういうのは、その端的な例でしょう。

盗聴法反対

また、ご存知のように、(とくにお気に入りの)サイトへのリンクを張るとき、そのサイトへの敬愛をこめてリンク先のバナー(ロゴ、ボタン)をリンクボタンにすることもよくあります――バナーをクリックすると、そのバナーのサイトに飛べるっていうおなじみのパターン。単なる「事務的」な参考リンク先なら、ふつうの文字のリンクでいいけれど、個人的に愛着のあるサイトだと、そこのバナーを使ってみたくなることも多いと思います。これも「わたしは、このバナーのサイトを応援してます」みたいな一種の主張ですよね。

あるいはまた、自分のサイトのリンク集のページを、カラフルで楽しくする、という意味あいもあるかもしれません。おもしろいサイトとかを発見して、そこのバナーを持ち帰り、バナーコレクション(?)が増えてゆくのは、それなりに楽しいもの。とくにバナー自体が美術的にすてきだったりすると、珍しいきれいな切手を収集するような喜びがあるかもしれません‥‥。

バナーの大きさ、画像形式は、いろいろですが、(少なくとも日本では)200x40ピクセルというのが、ひとつのディファクト・スタンダードになってるようです。↓この大きさです。

Free is Priceless
妖精現実 フェアリアル

同じバナーでも、次のように影をつけて、バナーがふんわり宙に浮かんでいるような感じに表示させると、ちょっとクールかもしれません。上の表示例と下の表示例を見比べると、下の表示例のほうが、見栄えがいいでしょう――CSSに対応しているブラウザ(IE4、IE5、ネスケ6)では、簡単にこんなことができます。ちょっとしたトリックを使えば、CSS対応がめちゃくちゃなネスケ4でも、これを実現できます。CSSに対応してないブラウザで見ても、単に影がつかずにふつうに表示されるだけで、エラーになったりしないのでご安心ください。(細かいバージョンの違いやOSや環境によっては、微妙に表示がずれるかもしれませんが、大きな不具合には、ならないと思います。

これは、いわゆるコロンブスの卵ってヤツで、じつは少しも高級なテクニックじゃありません。下にあるような「影」の絵を「背景画像」に指定してるだけです。単純な発想でしょう?

zz2.jpg

いくつのバナーに「影つけ」しようが、影の部分は、このたった835バイトのjpeg画像ひとつを使いまわせるので、少しも重くなりません。上の例では、バナーの大きさが 200x40 かつバナーを表示する場所の背景色は白、でないときれいになりませんが、興味あるかたは、この発想を参考に、各自ほかのパターンにも応用してみてください。ここでは、上の画像の使い方を説明してみます。200x40のバナーなら、基本的にどんなバナーにも、この方法を適用できると思います。――もともとのバナーが、
<img src="banner.png" width="200" height="40" alt="banner">
というコードだとして、それをふんわり浮かせるには、次のようにimgタグをdivタグで囲って、divタグのclassを指定してください。classの名前は自由ですが、ここでは仮にhoverとしてます。
<div class="hover"><img src="banner.png" width="200" height="40" alt="banner"><br>&nbsp;</div>

上の例をまねて、HTMLのソースをちょっといじるのは、そんなに難しいことじゃないでしょう。なお、<br>&nbsp; は、本来、無意味な(書くべきでない)要素ですが、ネスケ4のご機嫌をとるためのものです。これを書かないとネスケ4では期待通りの効果がでません。

あとは、スタイルを次のように指定するだけ。
<style><!--
.hover{
background-image:url(zz2.jpg);
background-repeat:no-repeat;
height:50px;width:220px;
}
--></style>

スタイル指定の意味がよく分からないかたは、とりあえず、このワザを使いたいページの <head>部分に、そのまま上のコードをコピペするのでもOK。また、ある程度以上お分かりになるかたは、次の点に注意してください。背景イメージのURLは、スタイルシートがある場所からみたパスです。しかし、ご存知のかたも多いと思いますが、ネスケ4では、スタイルシートが読み込まれるHTMLからのパスを書かないとうまく行きません。この問題を回避するには、URLをhttp://から絶対的に指定するのがいちばん簡単ですが、ネスケ4のことは、もう無視するのが正解かも‥‥。

zz2.jpg というのが、影の部分の画像で、上にあるヤツです。自作するのがメンドウなら、上の影の絵をご自由にお持ち帰りください☆ CSSにまだ不慣れなかたは、とりあえず、このワザを使いたいHTMLファイルがあるのと同じディレクトリに zz2.jpg をアップして、上のコードをそのまま使えば、たぶんうまく行くと思います。

このアイディアは単なる視覚的効果だけで情報の本質とは無関係ですが、同じ情報(バナー)でも、ちょっとした工夫で印象が変わり、伝えたいことがより明確に伝わる……ということは、よくあるものでしょう。なにより、CSSを使うと、いろいろおもしろいことができるわけで(以前にも無料ホームページの広告バナーをむにゃむにゃする方法を紹介しましたが‥‥)、実用的にどうこう、本質的にどうこう、というのとは別に、いろんなアイディアを試すのは楽しいものでしょう。

いつものことですが、上のコードやアイディアは版権フリー(妖精現実のオリジナル)です。改変、改良、応用など含めて、ご自由にお使いください。

ついでながら、「バナー」という字は banner で母音はa、「ボタン」という字は button で母音はu。バナーのことをボタンともいうし、両方bから始まっているので少し混乱しやすいのか、ときどき、"bunner" と書いてるのを見かけます。べつに意味が分かればいいので、ちょとした綴り字の間違いに神経質になる必要は少しもありませんけど、まぁ、学校の試験とかにも出るかもしれない基本単語なので、この機会にまとめて覚えておくと吉。bannerのaはcatのaと同じでアとエのあいだのような、ひしゃげた感じの音、buttonのuはrunのuと同じで、くちをあまりひらかずに、くちの奥のほうから出すちょっぴりオに近い鋭い音。――無料ソフトのバビロン(おすすめ)で正しい発音を耳で聴いてみてください。だいたいの発音が分かっていれば、綴り字も覚えやすくなるはず。

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