2 : 05 ピカソ「ミノタウロマキア」

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ピカソのミノタウロマキア

2001年 1月27日
記事ID d10127

ピカソというと、世間的には天才芸術家というイメージのかたわら、「あまりにデフォルメされて、わけの分からない絵」といったイメージもあるかもしれない。

でも、この絵を見てほしい。

画像, 33kb

これはピカソの版画(エッチング)「ミノタウロマキア」の一部だ。画面右側から、からだは人間だが頭は牛の怪物「ミノタウロス」が迫ってくる。左側のちいさな子どもは、この怪物にたちむかう「闘牛士」だ。左手にかかげたちいさなロウソク――ちいさな光だけれど、怪物は、この光に恐れをなして、ひるんでいるように見える。

象徴的な、そして印象的な絵だ。

子どもの無邪気さは、しばしば残酷でさえある。でもその純真(じゅんしん)さは、窮極的には、世の邪悪なちからより強い。少女が持っているろうそくは、ちいさいながらも、すべての闇を照らし出し、魔物を恐れさせる「無垢(むく)」の象徴だ。

しかし、この絵を、通俗ファンタジーのように、単純に「光と闇の戦い」とだけとらえるのも、あさはかだろう。闘牛の牛は、結局のところ、もてあそばれる存在、「闘牛士」である少女にとっての「いけにえ」だ。子どもは、その「いたいけさ」を武器に、怪物たちを手玉にとっている。それだけでは、ない。この絵には、もっと深い意味が隠されているように見える。こちらに、もっと拡大した全体図があるので、まずは、それを見てほしい。

大きい図版でみると分かりやすいが、この絵は、たしかに「無邪気さ、純真さは、あらゆる怪物の脅威をしのぐ」という主題を持っている。上から心配そうに見ているだけでなにもできない大人たち、はしごをのぼって逃げてゆく人物と対照的に、少女は、右手の花束と左手のともしびとで、怪物に真っ正面から立ち向かっている――怪物たちは、この無垢の光におそれおののいているかのようで、少女に指一本触れられないでいる。

けれど、うがった見方をすると、べつの意味で、「怪物と戦わなければならないのは、子どもたちなのだ」、ともいえる。セックスアピールの魔物のように、乳房(ちぶさ)が飛び出た馬。暴走する感情の怪物。奇怪な馬に象徴される、妄想めいた空想。――おとなのもとには、これほどまでに「原初的」な怪物は訪れないかもしれない。怪物たちは、まさに子ども自身のもので、無垢の光とあらゆる怪物がせめぎあっているのは、子ども自身の心象風景である……という見方もできる。

ともしびと花を手にした少女は「無垢」の象徴だ。無垢のちからは、おとなの社会の怪物たちより強いのだ――というふうにも解釈できるし、また他方において、「とつぜん現れ暴走する怪物(肉体の象徴)」と子どもの純粋なこころ――子ども時代にこころを満たしていた光――とのあいだの「物語」ともとれる。

いずれにせよ、子どもたちは「闘牛士」であり、その純真のちからによって、怪物――それが自分の内面に住むものであれ外の世界の不正や矛盾の象徴であれ――と、戦っているのだ。

「ミノタウロマキア」が見られるサイト

妖精現実内の関連ページ東京の18歳未満のみなさんへ

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性教育と靴泥棒

2001年 1月24日
記事ID d10124

情報のやりとりが発達すると、子どもは物知りになる。おとなは子どもにウソをつけなくなる。従来のように、うやむやにできなくなる。そして、あせる。自分たち自身が、まっとうな性教育を受けていないからだ。

当惑したおとなたちは、「そういう当惑させる情報をできるかぎり子どもから引き離そう」と試みる。それを正当化するための理屈として「不健全」という概念が用いられる。違う。おとなも直視しなければいけない。そういうポリシーの先進国とされるスウェーデンの小学校でも、昔は「おしべとめしべ」のたとえで何か言い出そうとして、顔を赤らめ、くちごもってしまった先生がいたという。従来の価値観の世代にとっては、たしかに「恥ずかしい」だろうが、がんばってこの過渡期、自分自身を救うための握手のための時期を、乗り越えてほしい。対象を直視できない――ゆがんだ内部的イメージにこり固まった――おとなたちに、どうして「健全」が見分けられよう。

「ビニ本の福袋効果」――隠さなければ、希少性も神秘性もなくなって、商品価値もなくなって、市場経済では自動的に消え失せる。不健全と称して隠すことが、かえって実際以上のウワサを呼ぶ。「不健全」という概念そのもの、「禁止」「恥かしい」「隠さなければいけない」「日常のほかの事柄とは別扱い」という観念そのものが、本来的には存在しない「不健全性」を作り上げる。……「大粒の梅干しのことを考えるな。小粒ならいい」と叫ぶとき、あなたは、すでに大粒の梅干しのことを考えている。子どもは、あなたによって、梅干しが大粒か小粒かを気にし出す。厳密な境目など、もともとないのに。そんな表面的なあやふやなことより、「天然塩か味の素か」とかを気にしたらいかがですか。

鉛筆削りを使った少年犯罪が起きたら、「少年に鉛筆削りを与えるな」「鉛筆削りは非行のしるし」、電柱を使った少年犯罪が起きたら、「公共の福祉のために街から電柱をなくしましょう」まじ? (春川菜美、中2のもよう)

鉛筆の正しい削り方の手本を示せるヤツいないわけ? (同級生だった夏木くん。作者の気まぐれでボクはラストで女になってるんだよ〜って、まぁいいかフフ)

「アダルト画像などの不健全ななんたらの流通をとりしまり健全な青少年の……」不健全を隠すのもいいけど、とりあえず「健全」の手本をみしてみな。どれが健全なんだ。ほら、これならおおっぴらに、誰に見られても恥ずかしくない健全なやり方です、ってのを示してくれ。(有馬くん。なんか怖いぞ)

いけない、いけないって言いながら、教師も警察も政治家も、みんな、ああいうことやこういうこと、やってるじゃんなぁ。情報を隠せなくなってる、もみけせなくなってることで、人間の本質が浮き彫りになってきたのでは?(生田、14歳。こいつら年、とらねえのか?しょうがねえなぁ。人間の常時普遍の本質じゃなくて、社会依存の問題だぞ)

あなたがたが「不健全」と呼ぶものが、べつに「健全」とか「不健全」とか関係ないお天気の話題のようになる。子どももおとなも当たり前のこととして話題にできる。どこにも陰湿な熱気の入りこむすきは、ない。すべて透きとおってしまう。

オナニーや性欲や性的暴行や望まない妊娠の問題について、それが起こりうる充分に前からおしえなければ、ならない。試行錯誤したり迷わないように、秘密めかさず、すべて明確に情報を与え、また、解剖学的を含むすべての知的好奇心を完全に満たそうとしなければならない。

子どもたちが、試行錯誤しながら、てんでに自動車を勝手に運転し始めたころになってあれこれしつけようとしても、もうそのころには、さまざまな問題や衝突事故が生じているに決まっている。社会に出る前に進路指導をするのが当然であるように、思春期前から必要な知識を得られるようにするのは当然だ。ひるがえって、セックスや自慰や性欲に関連する話題そのものが不適切だなどと目線をそらしていては、真の健全性へは永遠に至れない。

数学の教科書を書くなどの経験をしたことがあればすぐ分かると思うが、ある話題がその場で議論するのに「不適切」に見えるのは、必要とされる予備知識のギャップがあるからであって、その話題が本質的に講義に不適切ということは、ありえない。すなわち、おしえるべきときに適切におしえられるように、小学1年から段階を追っておしえる、という当たり前の結論に達する。思春期前に、同性愛、トランスセクシュアル、トランスジェンダー、ジェンダーレス、のいちばん最後までおしえるべきだ。すべての子どもは、思春期前に、性別選択の自由選択しない権利について、充分な説明を受けるべきである。(by北原ミカくん。やっぱり君の言うことは、妖精ふうだな)

「犯罪/少年犯罪」――「犯罪」をおかすことは絶対にいけない、と子どもに教えたければ、おとなは絶対に犯罪をおかさない、ということになっているのが理想的だろう(例えば、おとなは、ふつうだれでも漢字の読み書きを当たり前のようにできる、という事実があってこそ、子どもは当たり前のようにあんな難解なチャイニーズキャラクターの規則を覚えようとする。英語教師がいつも苦労する点のひとつは、子どもたちが英語を話せないおとなたちを見て育ち、英語を話せなくても生きいけると思っている点にある)。しかし、犯罪という概念は、あいまいでもあり、多様なので、ここでは雛形として、「おとなは性に関する犯罪をしない」という状況を考えてみる(つまり上の性教育の話を少し一般化して拡張するための準備をしている)。一定の条件をつけると、いちおう「子どもがうまく育っていれば(つまり禁止されているからでなく、理解して内発的に行動できるなら)、そのような子どもがでかくなった結果としてのおとなも妙な性犯罪(例えば盗撮とか)をおかさない」;実際には、この通りでないが、重要なのは除外例の問題じゃなく、子どものうちから透明に育てれば、「性」に関する従来の認識のゆがみが解消されて、おとなも透明になる、という観点だ――罰則を厳しくするとか、あやまちを犯したものを矯正施設に送ってどうこう、という対症療法じゃなく、問題の本質的原因になっている社会常識の認識の問題というものがもしあれば、その問題を少しずつ変えてゆくことで、もっと抜本的な解決が可能、という見方がある。

ほかの種類の犯罪についても、原理的には、似たことが言える。ただし、実際に、この議論を一般に適用するのは、かなり難しい。ある特定の時代、地域の社会で、特定の種類の犯罪が多発することがある以上、一般に、犯罪は社会のかかえる問題と切り離して考えられないのだが、現在の社会の段階においては、ある犯罪傾向が社会のどのような部分と因果関係があるのか、あいまいなことが多いからだ。靴が不足している社会Aで靴泥棒が頻発(ひんぱつ)する、として、靴の供給を増やせば靴泥棒は激減するに違いない――社会Aを我々の立場で外から見れば、極めて明白に思われる、が、社会Aの内部にいる「イントリンシックなメンバー」にとって、いろいろな点で、このことは、それほど明白とも限らない――。それにしても、「最近、靴泥棒が増えているな」という認識は、イントリンシックに可能であって、「この傾向には、なんらかの原因があるのだろうな」とも考えるだろう。他方、もし靴泥棒問題は重大だということになると、「今後、見せしめのため、靴泥棒は厳罰に処するべきだ」と叫ぶ人々も現れるに違いない。

見せしめもまったく効果がないとは言えないけれど、靴の絶対数が不足して靴泥棒が多発しているのであれば、いくら罰を厳しくしても抜本的な解決にならないであろう。しかし、社会Aの内部では、まだ「靴の絶対数が不足している」ことが認識されておらず、「靴を盗まれた被害者感情」と「靴を盗んで捕まった者の顔写真を雑誌に出して良いかの犯罪者の人権の問題」のかねあい、といった、わけの分からない議論に終始していたりする。外から見るとおかしくても、イントリンシックには、社会Aは、それなりに真剣なのだ。

上記は、いわゆる「犯罪が起きるのは社会が悪い」とかの議論とは、あまり関係ない。善か悪かの二分法で考えるのが好きな人は、「犯罪の根本原因は、しばしば社会の側にある」というと「諸悪の根元」「犯人は悪くない?」「犯人も社会の被害者なのだ」などと文学的表現にハマるかもしれないが、ここではプラクティカルに、単に「犯罪」が防げれば良いとだけ考えている(だから場合によっては厳罰主義も否定しない)。ある場合には、問題は、その社会の多くの人(実際に犯罪者にならなくても)を圧迫しているから、解消できれば、単に犯罪減少以上の効用がある。そのようなケースは原理的にいちばんつごう良い。しかし、べつの場合には、多数の人にとってつごうが良い社会の新機能が、少数の人の犯罪の背景になっている場合もあるかもしれない。この場合、もし社会の側から「根本解決」したければ、多数の利益を捨てなければならなくなる。すなわち、根本解決すなわち絶対善とも言えない。

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[af]なぜそこにテロリストがいるのか?

2001年 1月21日
記事ID d10121

きのうの記事でもお伝えしたように、国連の名のもとで、アフガニスタンに対する追加制裁が始まった。「アフガニスタンにはテロリストがいるから、こらしめてやる」という理屈らしい。それもいいかもしれない。ただ、アメリカが名指しで非難しているオサマ・ビン・ラディンは、アフガニスタン人では、ない。アフガニスタンにテロ基地を作ったのも、アフガニスタン人では、ない。そこでなにやらやっているのも、アフガニスタン人では、ない。あなたのことでもなく、あなたが作ったものでもなく、あなたがやったことでもないのに、そのことで、あなたが罰せられるとは――。

いまアフガニスタン発の現地レポートには「孤立感」「不条理感」「見捨てられ不安」のような表現が、たくさん出てくる。無理もないと思う。

それにしても、アフガン人自身じゃないとするなら、アフガニスタンにいる「国際テロリスト」とは何者なのか。だれが、なぜそこにいるのか。――この記事内では全部は書かない、が、あなたが考えているほど単純な話(あそこは悪い国だから悪い奴がいっぱいいる?北朝鮮?旧ソ連?ポルポト?(笑))じゃないっていう感触はつかんでほしい。もちろん、「すべてアメリカの陰謀だ」とか何とかいうのも、同じくらい幼稚な理解だ。

現地の反応がいろいろ伝わってきているが、きょうは、問題の「テロ施設」があるとされるアフガニスタンのナンガルハル県で、実際のアフガン人は今どんな様子なのか、AP電Afghanistan's Poorest Say UN sanctions Hurting Them Mostを中心にさわりだけ紹介する。この記事の全文は、アフガニスタン page 7でお読みいただけます。

Afghanistan's Poorest Say UN sanctions Hurting Them Most

タジ・ビビさんは、県都ジャララバードの、悪臭がただよう病院の外にしゃがみこんでいたが、国連制裁の話になると、はじかれたように立ち上がった。全身を覆うブルカ(女性の伝統的衣服。黒くて長いショール)の下から、こぶしを突き出す。突然の荒々しい腕の動きで5歳になる自分の娘を転ばせてしまう、が、助け起こそうともせず、彼女は叫んだ。

「いったい国連は何をするつもりなんですか! 何のためにわたしたちを罰し、苦しめるのか。もうお財布は、からっぽです。おなかも、からっぽ。今朝だって、この子に、いちばん安いパンのたったひときれだって、食べさせてやれなかったんです。これが正義なんですか? これは虐待です」

最後は涙声だった。

近くで身を寄せ合い、ブルカの下で息をひそめていた女性たちも、たまりかねたように、いっせいに声をあげ、国連とアメリカをなじり始めた。

「干ばつで助けてほしいというとき、助けの代わりに罰をくれなさる。あたしの村じゃ、家畜もみんな死んじまい、川もひあがっちまって、どこにも水がない。どこにも、だよ」トル・ジャンさんは言う。この日は病気の息子を病院に連れてきたのだそうだ。「一滴でも水を見つけられたら、幸運者だよ」

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fig.4 干ばつで死んだ動物の死骸 cited from Please do your part (IslamiCity Drought Relief Org)

アフガニスタンは、去年、過去30年で最悪の干ばつにみまわれ、農作物が壊滅的な被害を受けたばかりか、家畜も全滅、何百万という人々が、水と食べ物を求めてさまようことになった。

2001年1月19日、30日の猶予期間が終了し、国連のアフガン制裁決議が発効した。国連はアフガニスタンを統治するタリバンたちに、「テロリスト」訓練キャンプである疑いが持たれる施設の閉鎖と、オサマ・ビン・ラディン氏の引き渡しを求めていた。

「ラディンたった一人のために、俺たちの国をまる焼きにするとはな」アブドゥル・カイユムさんは吐き捨てるように言う。背の高い、やせた男性。ひとことひとこと、区切るように、怒りをこめて激しく手を動かす。

通貨のさらなる暴落、そしてインフレ

制裁は、一般のアフガン人を苦しめる意図のものではない。しかし現地の実情は、さしせまっている。ジャララバードの人々は、「国連制裁による不安感と孤立感の結果、ほとんどの物の値段が上がり、もともと弱含みの通貨アフガニは暴落を続けている。怒りとやりきれなさでいっぱいだ」と、口をそろえる。

「不公平じゃない、みんなショックを受けて、怒ってますよ。だって誰にも理解できないでしょ、こんなこと。どうしてラディン氏たった一人のために、わたしら全員がこんな目にあわなきゃならんの?」運輸会社を経営するヌル・アガさんは言う。

アメリカ合衆国は、ラディン氏がアフガニスタンにある拠点から、世界のテロリスト・ネットワークを運営しているのだ、と言い張っている。224人の死者を出した1998年の東アフリカの大使館爆破事件もラディン氏のしわざだというのだ。

17人の米兵が死亡した2000年の駆逐艦コールへの自爆突撃についても、ラディン氏が容疑者とされている。

オサマ・ビン・ラディン氏の組織「アル・カイダ」は、少なくとも3つの拠点をジャララバード郊外――ダルンタとファルマダ――に持っていると見られている。

「あそこにはアラブ人がたくさんいますね。いつも見かけますよ。あるときなんか一日で50人も見た」カイユムさんは言う。「町に来るときは自転車のことも車のことも歩きのこともありますけど、あのアラブ人たちは、とにかくわたしらみたいに貧乏じゃない。きのうなんてあんた、羊を2匹、買いにきましたよ。カネがうなるほどあるんだ」(※注:アフガニスタンは、イスラム圏ですが、アラブでは、ありません――その点では、インドネシアなんかと似てるわけです。一般のアフガン人にとって、アラブ人は「外国人」。)

「ナンガルハル県のパチ・ラガム地方には、多くのアラブ人が住んでいる」ナンガルハル県の県都ジャララバードでは、何人かの人がそう語ってくれた。たいていの人は、自分がそう言ったとは言わないでほしいと、付け加えた。アラブ人の居住地域は、1996年にタリバンたちがその地方をおさえるより以前に、ラディン氏が購入した土地だという。1980年代、アメリカの後ろ押しによって反ソ連のゲリラ闘争が続いたが、当時、反政府運動のリーダーだったユーニス・ハリスから、億万長者のラディン氏が買った土地だ、というのだ。

世界のテロリズムに関する米国の最新報告書によると、アフガニスタンはテロリズムの中核になっていて、そこに中東、中央アジア、および東アジアの反体制派が集まっているとされる。この反体制派の人々の多くは、かつて反ソ連のアフガンゲリラ闘争に参加した外国人であり、今は激しい反米憎悪に燃えている。

いわゆるアフガン・ベテラン。ソ連のアフガン侵攻のとき、世界中のいろいろな国から、反帝国主義なり反共産主義なりイスラム聖戦なりの思想に燃える人々が、アフガニスタンに「すけだち」にやってきて戦った。それをゲリラとして組織し武器を与え訓練したのはアメリカだが、このときアメリカが訓練したゲリラ兵たちが、あとになって今度は反米闘争に加わった。くだいていえば、アメリカは「こいつらは使い捨ての犬だ」と思って武器を渡していたら、「飼い犬に手をかまれた」。以上のように、いわゆるアフガン・ベテランは、一般にはアフガニスタン人では、ない(ましてやタリバンのことでは、ない。反ソ闘争の当時、タリバンなんかそもそも存在してもいない)。決してアフガニスタンの人々がテロ活動をしているのではなく、アフガニスタンにある拠点に諸国の反体制派が「勝手に」集まってきて、あれこれしているらしい――しかも、アフガニスタン国内にそういう拠点を作ったのは、アメリカ自身なのである。

ヌル・アガさんの考えでは、ラディン氏の問題について、タリバンたちはイスラム圏諸国による調停を求めるべきだという。タリバンたちは、ラディン氏は客であり、客人を敵に売るようなことは絶対にしないのがアフガニスタンの文化だ、と言っている(※このことはアフガニスタンの人が運営しているウェブサイトでも感じますが、客人を最大限もてなすというのが、アフガンの文化的伝統らしい……1、2回、掲示板に書き込みしただけで、ラマダンのカードを送ってきてくれたり、ほかのサイトじゃ、ほとんど考えられないほどの歓待)。

「ラディン氏は客人だけれど、客というのは永遠に滞在するもんじゃない。解決法は、あるんじゃないかな」アガさんは続ける。「でも、だからって、アメリカの言いなりでホイホイ引き渡すなんてのは問題外。イスラム諸国があいだに入ってうまく取り持ってくれるといいんですがね」

妖精現実内の関連記事[af]アフガン制裁発効(2001年1月19日、国連は何を「制裁」すると言っているのか?)|アフガニスタン・表紙

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