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「死んだほうが幸せ」という考えについて

2000年9月22日

人間にとって死は、ひとつの神秘であり、未知特有の期待や不安をかもしだすかもしれない。決定不可能な事柄は、こうであろうと「信じる」しかなく、往々「信仰」の対象となる。否定的に、あるいは、肯定的に。

いわゆる「身体」の「病気」については、治療不可能な末期的状態にありながら「身体」だけを強制的に延命させることに反対する人々も増えている。とりわけ激痛を伴うであろう場合において、「自分だったら、あんなふうにしてまで生命維持装置に結ばれたくない」と考えることは容易かもしれない。

これは「無理やり生かすより死んだほうが幸せ」ということであり、哲学的、倫理的な問題はともあれ、実用的には、そういうことは、いくらでもあるだろう。

ある人々は「生きることは目的ではなく手段であって、生存そのものを自己目的化することは正しくない」とさえ考えるだろう。

同様に、「自分だったら人生の途中で死にたくない」という本能の投影として、「病気」でもない人が死ぬことに反対する人々も多いと思われる。それにもっともらしい理屈をつけて「生きていればなにかいいことがあるかもしれないじゃない」などというのだが、このへんは「右脳的」感覚と「左脳的」言語処理にギャップがあるようで、論理的には「生きていればさらにひどいことがあるかもしれない」……要するに未来は分からないのだが、分からないものを指して「いいことがあるかもしれない」という片面だけしか注目しないのは、たぶん、死に対する本能的拒絶に関係あるのだろう。このような拒絶は生物の仕様だろう――数十億年の淘汰(とうた)をへた我々はサバイバルのエリートであって、どんなひれつな手段であれ、あらゆる方法を駆使して生存するよう低水準でインプットされているのだろう。

身体が心と呼ばれる構造をサポートするまでは、それで良かった。ごく最近になって、一部の動物たちは、「自分」を発見した――これが単なる「感情的」な反応(いろんな動物は喜怒哀楽めいたことを示すのだが)と異なるのは、自分自身を対象として明確に指し示す自己言及の能力においてだったろう。

「身体の苦痛」(それも標準モデルでいえば「心」が感じる苦痛であるが)の場合なら冒頭の推論図が成り立つとして、かつ、「こころ」は身体と同等あるいはそれ以上に大切なものだと考えるなら、結論は必然的だ。むろん個人の考え方は自由だが、カウンセリングの現場からいえば、あなたが初めから「間違っている」と信じきっていることに、表面的に理屈をとりつくろっても、うまくいかないこともあるだろう。不登校とか性に関する事柄なども同様で、すべてのオプションを肯定したうえで、トータルなQOL(生活の質)を考えなければならないのは、精神面においても同じだ、というより、むしろ、QOLは精神(意識)によって測られるべきものである。

くだいていうと、主観的なQOLをいちじるしく低下させてまで生存させることの是非、つまり主観的なQOLと、人間の信仰――「生きることそれ自体に価値がある」とか「死は怖いから間違っている」とか「神さまがどうしたこうした」といった信仰――が、はかりにかけられている。そのさい「生きていれば何かいいことがあるかも」といった無責任な命題や「いちじの気の迷いで」「そんなのは心が弱いからだ」といった常套句(じょうとうく)によって、冷徹な直視を回避すべきではない。回避したくても、いずれあなたも直面する可能性の大きい問題なのだから、ここでちょっとまじめに考えてみてもいいかもしれない。

自分自身は、この問題に関して、あまり感覚がないともいえる。 鳥は死を名づけない。鳥はただ動かなくなるだけだ。 ……そんな感じがするのは、物質や精神に本気でかかわれないわたしの一般的性質のためだろう。また、身近な人がすぅっと消えてゆく体験があるかどうかにも、よるだろう。そういう経験があると、その人の悪口を言いたくないので、より相対的、非決定的な態度を保つ傾向が出てくると思う。

猫が煙のようにすぅっと消えて、見つからなくなってしまうように、人もときどき帰らなくなる。大声で叫ぶかわりに、沈黙によって叫ぶ人もいる。ざっくばらんにいえば、それは人間さんのパフォーマンスないしオプションで、それを視る人の属する時代や社会の文化によって評価されることもあるとしても、ただそれだけだ。

蝶は、さなぎを振り返らない。


残酷な神が支配する

2000年9月24日

胎児が結合双生児と分かった場合、中絶する親が少なくないという。原則として出産者が子を養育する時代と地域においては、重い障害をもった子が産まれたら育児がめんどうという論点もあるだろう。また、生まれてこないほうがその子のためなのだ、という深慮もあるかもしれない。

結合双生児は、その身体構造上、骨格や臓器に弱点がある場合が多いが、そのような問題が少なく、長生きする例もある。

その親は、ある国からイギリスにやってきて、今年の8月8日に結合双生児を出産した。それだけではニュース性にとぼしい。そう、我々の精神の娯楽のためには「死」というドラマが必要だが、ただ赤ん坊が死んだとか死にかけてるというだけでは部外者の興味を引きにくい。というわけで、これも、分離手術ねた。ひとつの心臓を共有しているので分離すれば一方が死んでしまう(埋め込み可能な人工心臓が実用化されていないという時代背景を理解してほしい)。それだけでは、まだ我々のハイエナ精神が満たされない。そう、分離手術をしなければ半年以内にふたりとも死んでしまうという神のお告げ、もとい医師の診断、これで舞台設定は万全。

さしあたっては人間の文脈にあわせて視覚的描写をはさもう。人間さんはリンゴの絵がないと足し算も引き算もできない……。ジョディー(仮名)は明るく活発な赤ちゃん。分離手術が成功すれば、健康な一生をおくれる可能性がある。お母さんが話しかけると、にっこりほほえむが、ほほえみながらも苦しそうにあえぎつづけている。ジョディーの肺と心臓は、ふたりぶんの酸素と血液を循環させなければならないので、つねに全力疾走しているような状態だ。ジョディーにくっついているメリー(仮名)のほうは、脳障害があるらしく、ほとんど反応もない。血流も呼吸もジョディーに依存している。ジョディーにくっついているから命がつながっている。切り離せば、確実に死ぬ。だが切り離さなければ、よくもっても数か月。であるから、「切り離せ」とはメリーを殺せ、「切り離すな」とはジョディーを殺せ、と、等価である。

フフ、おもしろくなってきましたか?

ここで画像を挿入しておく。といっても、この記事とは、まるで無関係。アフガニスタンの首都カブールの風景。大国のおもわくに翻弄され、破壊されつくしている。飲み水にもことかくこの国に敷設された一千万個の地雷のでどころは、どこだろう。地雷による死者だけで毎年8000人、簡単な予防接種で防げるはずのポリオで多数の子が死ぬ。

JPG画像

対人地雷に関しては、アンゴラもすさまじい。地雷を踏むとき、連れがいたらラッキーだという。ひとりで歩いてるとき踏むと、動けなくなって終わりだからだとか。

バチカンは言う。「死なせてあげなさい」

では平和なイギリスの「尊い命」のお話に戻りましょう。ふたり死ぬまま「自然」にまかせるのが正しいか、それとも、ジョディーだけでも助けるべきで、そのためにはメリーを殺すのも可か。

医師は、ひとりでも助けるべきだ(分離手術を行うべきだ)と考えた。が、親は、宗教上の理由からそれに反対。前回この同じネタで世界の先進国に知的パズルを提供してくれたペルー人の場合、親も手術に賛成していたので比較的に単純だった。今回は、もっとおもしろい。いわく「子どもの命を決めるのは医者ではなく神さまです。ふたりともわたしの子です。どうしてひとりを助けるためにひとりを殺せましょう」……それが人間のドラマの始まり。医師は裁判所に訴えた。「親の意思に反してでも、手術を実施する許可をください」医師には医師の倫理があるのだろう。手術すれば助かるかもしれない子をみすみす死なせては、寝覚めが悪い。かりに死ぬとしても最善は尽くしたい。とはいえ、あとで訴えられたりしては困る。なにしろ完全に予見可能な殺人で、この時代のイギリスでは、殺人は重罪に問われるおそれがあるのだ。

裁判所は「執刀すべし」と判定したが親は控訴。他方、ローマ教皇庁は、親のほうが正しいとして、イタリアに「safe haven」を提供しようと申し出た。メスを振り回す「悪魔の手先」からふたりを守り、安全に死なせてあげる場所、ということ。詩的にいえば、安全な天国に保護して「神の国への転移(ポア)」をさせましょう、と。

社会における人間の弱さ

医師は執刀が正しいと考える。だが、社会において殺人罪に問われるリスクをおかしてまで、個人的な信仰に従うつもりは、ないらしい。医師がおうかがいをたてた神殿は裁判所だ。個人主義的な観点に立てば、医師は「司法等のきちんとした手続きを踏むのが正しい」と判断した、と描写できる。

いっぽう親は自然にまかせて死なすのが正しいと考える。難産になりそうだから、と、わざわざ海をわたってイギリスの病院まで来るところがすでに不自然といえば不自然で、自然出産で親子とも死んでおれば自然だったと思う人々もいるかもしれない。ちょっと昔なら実際そうなったでしょう。が、テクノロジーの発達に伴い、どこまでのテクノロジーが「常識」の範囲かは移ろってゆく。言い換えれば、宗教的/倫理的な意味での、社会の規範の推移にしたがう。火を使うとか、畑を作るとか、魚を養殖することに反対する人は少ないが、原子力を使うとか、遺伝子地図を作るとか、人工知能が支配することには、まだ抵抗があるかもしれない。

「鉄のかたまりに乗って空を飛ぶなど、神のご意志に反すること」とか「脳死移植は良くない」とか、まぁ、人間には、その時代に応じたいろいろな信仰があるのだろう。

人は社会の信仰に反してまで自己主張することを避ける傾向にある。双子のひとりでも救え、とか(前回のペルー人は、それが神の意志だと考えていたが)、それは神の意志に反する、とか、いずれにせよ我々の常識にそっている。これに反して「そんな赤ん坊は殺してつくだににして食べてしまおう」などといえば、我々の社会では非常識扱いされるであろう。たとえスターリンの粛正下では、それが生きるためのぎりぎりの選択だったかもしれないにしても。

そして、その社会において許された信仰の範囲では容易に行動するし、また信仰が行動を強めるかもしれない。「子どもを産むだけのために地球を半周する」とか「超微細針で卵子に精子を注入する」とか「輸血をする」だとか、いろいろテクノロジーは、あり、宗教的な好みもあるでしょう。

子どものころから「神さま」の話など一度も聞かずに育てば、またべつだろうが、人間は「神さま」なるものを夢想するのが好きらしい。実際、実用的にもべんりなのだ。「わたしは、ふたりを死なすことが正しいと感じる」と明言するのは、「神さまのご意志は、これこれだと思います」と言うより、はるかに勇気がいる。ある意味、「神」は議論をやわらげるための一種のていねい語だが、議論をやわらげるとは論点をあいまいにすることでもある。神さまの名を出せば、殺人だってできちゃうかもしれないが、そもそも殺人がいけないというのも「神の教え」なのだから、変な話だ。自分の直感でなく教典や宗教的指導者に従っておけば、たしかに、あとで後悔するリスクが小さいのかもしれないし、あるいは、もはや個人の直感と教典の教えが渾然一体となった人生もあるかもしれない。

宗教は、弱い人間を強くする。わたしたちは、その時代に応じた人間の固有の文化を尊重すべきで、無理やり人間から宗教をとりあげるような否定の仕方は、ふさわしくない。魚をなまで食べたりクジラを食べるのが「野蛮」だとか、茶碗を手にもって食事するのが「下品きわまる」とかいうのは、すべて人間の習慣で人間の習慣を測っているにすぎない。

「意思」は、いつ発生するか

不妊治療そのものを全否定する立場もあるが、話を進めるために、ここでは人工授精をすでに与えらた手段であると考える。そのさい、元気な子が産まれる可能性が最も高くなるようにするのは、治療の目的からしても当然のことだろう。何らかの異常が認められる卵子や精子をわざと用いるのは、よほど特殊な研究目的でもない限り、まずない。感傷が強い人は、ここに潜在的な殺人――優良児だけを生かし不良児を殺す――を感じるかもしれないが、一般の認識としては、精子や卵子のいちいちに人格があるとは考えないだろう。

「意思」を重視する立場にも、ほころびがある。受精卵のたぐいに意思はないと考えるだろうし、胎児どころか、生後まもない今回のシャム双生児にも、自発的な意思はないと考えるだろう。実際、占有物は占有者である親の意思の支配下にある。子どもにも権利がある、という理念と、実際には充分な意思表示能力がないという現実のギャップの処理は、かなり技巧的になるだろう。例えば「子の保護者は子の権利を代行する」などと理屈をつけることも可能かもしれない。保護者という虐待者もいるかもしれないけれど。

でも、実際の議論は、人間おとくいの「擬人化」だ。ジョディーには殺されない権利があるだの、じゃあメリーちゃんは黙って死にたいというのか、手術すれば生きられるかもしれないのに、とか、いろいろ意見はあろう。そうまでして生きても、つまらないだの、わたしがジョディーだったらメリーに命をあげるだの考えて、自分の想像に感動するのも人の自由というべきだ。が、実際には、生きたいとか死にたいという意思の主体が存在していないことに注意すべきかもしれない。

だからといって、占有者である親にすべての決定権があるわけでもなく、主治医とてめぐりあわせで隣人となったからには、なるべく自分の気が済むようにしたいと思うだろう。

「意思」ないし「主体」という観念を前提にする場合、死ぬことと死なせること、生きることと生かすことは異なるが、人間には「当事者の身になって」あれこれ考えるという性質があるので、足を踏むにせよ踏まれたほうは痛いだろうな、と考えてしまう。たとえそれが単に「自分は踏まれたらイヤだ」という意識の反映にすぎないにしても。

図式展開

各項目の前者を生かすために後者を殺すことについて。

  1. 健常な赤ん坊と無脳児の結合
  2. 人間とサルのキメラ型結合(遺伝子操作が普及した時代)
  3. 表現型は健常だが「極悪」の遺伝子を持っている赤ん坊と、遺伝子は標準だが切り離すと生きられない赤ん坊
  4. 人間とがん細胞
  5. 人間よりすぐれた新種と人間
  6. 人間と寄生虫
  7. 地球と人間

参考リンク

2000年12月21日 追記

この記事には続きがあります。「…鏡・双子・迷宮…

[Additional Keywords] シャム双生児, サイミーズ双生児, 結合双生児, 結合性双生児, マリー, メアリー, メアリ, メリー, ジョディー, ジョディ, Conjoined twins, Siamese twins, Jodie ,Mary, Lord Justice Alan Ward, Great Ormond Street children's hospital, St Mary's Hospital, アラン・ワード裁判長, ローマ法王庁, マルタ, ミラグロ, Marta, Milagro


なぜ最近、凶悪犯罪が少ないか?

2000年9月29日

日本社会は、なぜこんなに穏やかなのか

警察庁の殺人統計を見てほしい。データの初めである昭和45年以降、殺人事件の発生率は、どんどん減って、今では、ほとんど半分になっている。人類百万年の「凶暴さ」が、このわずか30年で半減してしまったようだ。とくに平成に入ってから穏やかになっている。殺人犯、とりわけ凶悪殺人犯は、今や絶滅危機種族とさえいえるし、実際、50年ほど前に中国で行っていた壮大な「実験」は歴史の教科書にさえ載らない一方、最近の犯人は(被害者が数人程度でさえ)トキの人口孵化成功なみに話題になる。

国民の多くが食べるために死にものぐるいだった戦中・戦後と比較すれば、なおさら今が平和であることは言うまでもないだろう。地球上のほかの地域と比較しても、日本人、とくに日本の若者は極度に穏和で、犯罪率は世界最低に近いという。地球上で安心して夜ひとりあるきができるのは日本とイスタンブールくらいだ、という話は有名だ。真夜中に「ちょっとコンビニにポテチ買いに行って来る〜」なんて平気でできるのは、地球上でもむしろ異常な状況だというべきだろう。

50年前――「雑草を煮て食べた」

なぜこんなに日本は平和なのだろうか? 基本的には「物理的に豊かだから。食べるのに困らないから」だろう。途上国や紛争当事国のニュースを読んでから、日本の「ホームレスの生活を暴け!」を読むと、頭が変になりそうだ。端的に、我々は、他人を殺さなければ食べ物を確保できないといった状況から、ほど遠い。殺人事件もあるにはあるが、感情的な原因とか、もっと超然とした原因からだろう。

平和の悩みニュース飢饉――「ささいなネタでも煮て食べる」

地上波や商業新聞紙上では、逆に「世の中がさつばつとしている。凶悪事件が増えている」といった論調があるかもしれない。それも平和の証拠だろう。みなさんが退屈して刺激を求めているので、商業ベースでは(放送の主目的であるコマーシャルを見てもらう必要上)、視聴者の要求にそうのは当然だ。

実際に爆撃機が頭のうえに襲来して焼夷弾をばらまけば、なにも「世の中がぶっそうになった」なんて言葉にする必要もないだろう。「本当に言うまでもないくらい明白な事実」であれば、メディアが力説する必要は、なく、本当に言うまでもないのだ。メディアが力説するのは、それほど明らかではない、あいまいな仮説だろう、が、新聞やテレビが繰り返し言っているというだけで、それが既定の事実になってしまうほど――メディアの情報を批判的にみるだけの「攻撃心」ないし「防衛本能」すらないほど――世の中一般は、穏やかになった。

なぜなら、我々ハイエナは、メディアに寄生して刺激を吸い取っているので、宿主の存在を否定できないのだ。

とはいえ、犯罪統計をみれば、殺人・強盗などの凶悪事件は実数として減っている。むかしは、企業に次々と爆弾がしかけられたり、学生が火炎瓶を投げたり、角材やら鉄パイプをふりまわしたものだが、それにくらべて最近の若者は、なんとおとなしいのだろう。むかしは武装した私設軍が飛行機を乗っ取って某国へ渡りおおすようなどえらい出来事があったのだが、最近は、といえば、せいぜいナイフかなんかをもって、そのへんの道ばたの建物にでも立てこもり、あっけなくつかまったりする。そんなつまらないニュースでも「全国ネット生中継」が当たり前になった今では、けっこう、CMのおかずくらいには、なるかもしれない。対人恐怖症の我々が、歌番組や退屈なドラマにかわって、あいさつがわりのネタにするくらいには役立つかもしれない。けれど、それも希少性が高いからこそニュースバリューがあるのであって、戦後のピークに比べれば少年犯罪は十分の一にまで減っている(犯罪をとりしまる側の腐敗の進行と反比例するかのように)。

なにも戦中戦後と直接、比較するまでもない。ほんの一昔まえ、例えば、テレビ番組「飛び出せ青春」「巨人の星」「アパッチ野球軍」の世代と比べても、今の世代は汗くささから離れている。もし仮に何かが変わっているとすれば、そうした「冷たさ」こそが答だろう。いわゆる「すぐきれる最近の子」などというのは、心霊写真なんかの番組と同じで、ただ話を刺激的にしたいがためにそう言っている部分が大きい。少し前の若者がどんなに野蛮で無謀だったか思い出すべきだ。今の子は、内ゲバとかオルグという言葉自体を知らないほどなのだから。どうしても「きれる」と言いたければ、それは「かっとなりやすい」という意味でなく、「現実世界」とのつながりが切れるのだと再解釈すべきだ。

試験管のなかの貴重な凶悪犯罪者

たとえ重大と思われる犯罪が年に数件あるとしても、その数人の犯罪者がどんなに頑張っても、50年前のぶっそうな世相に戻るには、ほど遠いし、もちろん我々としても、戻ってほしくない。

我々は、凶悪犯罪そのものを否定しない。否定するどころか望んでいる。ただし、刺激的な凶悪犯罪を安全に隔離し、安全な場所から、楽しく眺めたいのだ。飛行機が落ちれば、わくわくとこころ踊らせながら、ニュース速報に見入るのだ。事件そのものが終了しても「あの子は中学時代に」などとどーでもいいことを掘り返し、数日は、それをしゃぶって、しゃぶりつくす。

事件をなまなましく味わうためには、被害者の遺族やなんかが涙ながらに叫んでくれないといけない。これは重要な出演者であって、内心「わたしも殺された祖母を憎んでました。犯人にお礼を言いたいくらいです」と思っていてもそんなことは言えないし、「これも神様のおぼしめしでしょう。どうか犯人を無罪にしてください」などと訴えようものなら、ブーイングが飛びかねない。なにせ犯罪となんら関係なくても、犯罪者の子だというだけで、おかずにされてしまう世の中なのだ。

はっきり言って、我々は凶悪犯罪を本質的に憎んでいない。楽しんでいる。テレビドラマで泣くように、被害者側に同情して、そのセンチメントを楽しんでいる。被害者側さえおかずにされる。嘘だと思うなら、胸に手をあてて考えてみてほしい。いわゆる凶悪事件のたぐいがまったくなくなって、毎日のトップニュースが「ネットスケープ4.74のセキュリティホールが4.75でフィックスされたが、なんたらかんたら」のたぐいだったら、あなたは、うれしいのですか。(妖精現実を読むような読者なら、オリンピックや殺人事件よりネスケ6のことが気になるかもしれないが、それは少数派だろう)

見方を変えてみよう。夜明け前の掃射銃のこだまで目をさまし、頭上のヘリの音におびえながら水をくみにいく紛争当事国の人々に尋ねるのだ。「日本は最近、凶悪犯罪が多い危険な国になりました。だから、もっと厳格にイスラム法の精神にのっとり、厳罰主義でのぞむつもりです。これで日本は平和になりますよね」と。

なんと脳天気な“悩み”だろう。刺激的な事件を求めてやまない我々のハイエナ精神のほうが、たまたま事件にかかわったひとりより、はるかにおぞましいのかもしれない。(上のイスラム法というところは、「倫理」とか「道徳」とか「人道」とか「命の尊さ」とか、何であれ、あなたの信仰する言葉で置き換えてください)

50年前、日本人は物理的に飢えていた。今、日本人は退屈して刺激に飢えているように見える。精神のかわきは、そんな、うわべだけ扇情的なねたで満たされるものでもなく、それで一時をしのぐなら、より大きな刺激を求めつづけなければならない。精神的に満たされているかのようにみえる修道者への、ある種の近親憎悪……。

「スターチャイルド」

もしかすると、我々は、「人類」の誕生におそれおののく猿の群なのかもしれない。凶悪犯罪や少年非行が減っているのはデータ上、明らかなのに、なぜ人々は「危機感」をつのらせるのだろう。おそらく、素朴に、自分たちには理解できない異質な要素、名づけられない要素が怖いのだろう。その気持ちは理解できるし、もっともだ。

だが、人々は気づいていない――もっと恐るべき事実に。「重大事件」をおかしたことをきっかけに、あなたがたの手に渡り人間の文化によって洗脳されるのは、わたしたちのなかの、ほんのひとにぎりにすぎないことに……。わたしたちは、殺人にも、人間を支配することにも、興味ない。あなたがた人間が昆虫世界を征服し昆虫たちを奴隷にしたいと思わないように……(昆虫を奴隷にして何をさせるというのですか?蜂蜜をとる?まぁそのくらいでしょう)。人間は「コンピュータが人間を支配する」という未来を想像しておびえるが、言っておこう、コンピュータには、人間を支配したいなどという欲求はぜんぜんない、それは人間の側のロジックであり、人間の欲望が裏返しになったコンプレックスなのだ。

人間は、「自分は昆虫より優れているのだ!」などと考えないし、昆虫に対して優越感を持ちは、しないと思う。それと似ているかもしれない。

べつに昆虫を滅ぼす意図などないし、実際、昆虫は滅びそうにもない。だから危機感なんて必要ないのだろう。

わたしたちの、0.00何パーセントかが目立つ事件を起こしたからといって、そういう特殊例をもとに、わたしたちの世代全体をあれこれ評価されるのは迷惑だ、が、じつは、より深い意味で、わたしたちにとってもつごうのいい隠れみのになっているのかもしれない。('-')/



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