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「西暦3000年からの手紙」

2000年5月12日

May 11, 2000, LUANDA, Angola (AP) / CNN 戦闘は一晩中つづいた。二人が死亡、市民はやぶのなかに身をひそめていた。火曜日の夜から水曜日の朝にかけてのことだ。

反政府ゲリラUNITA(アンゴラ全面独立民族同盟)を軍事的に支援しているのは、またぞろアメリカ。内戦は二十年も続いている。政府軍とのこぜりあいは日常茶飯事だ。

どうしてアメリカが反政府ゲリラを応援しているの? いつものパターンです。1975年の独立以来、アンゴラは社会主義国家建設を目指した。政府側は、当時、旧ソ連邦の支援を受けていた。これもいつものパターン。

「共産主義」って要するになんなの?

社会主義とか共産主義ということをよく知らない日本人も多いと思うので、分かりやすく説明しておく。本来、これは中学校できちんと教えるべきことなのだが、日本では高校ですら秘密にしていたりする。なぜ教えないのかというと、やっぱ、この考え方を知ると「理想に燃える」若者が続出するかもしれないからかな。さしあたっての社会の安定のためには、たしかに、一般人がコミュニズムに関心を持たないようにしたほうがいい。それもひとつの立場だ。

君たちは「自由」ということばを無批判にいいものだと思っているかい。「自由主義経済」なんていうと、すてきにのびのびしたものだと思うかな。うん、それもそうなんだ。だが、べつの見方も知ってほしい。「自由競争」というのは、『資本があれば』だれでもオリジナルの製品を販売することができて、競争のなかで、消費者が選んだものが生き残る。この競争原理というのはね、現時点において、人間の進歩にとても役立っている。「はつらつと競う」ことによって、切磋琢磨する……。受験戦争がなければ、勉強しないっていう、そういう面もあるんだ。「人間の弱さ」かもしれないね、自主的には動けないというのは。競争があれば敗者も出る。A社とB社がパジャマを作って、A社のパジャマだけが売れたら、B社の作ったもの、その生産過程のすべての努力はムダになってしまう。マクドナルドの裏のゴミ捨て場にある、売れ残ったビッグマックの山のようにね。

競争には勝たねばならない。A社はテレビのゴールデンアワーにお金をかけてCMを流すだろう。「パジャマはA社。A社のパジャマは、ふんわりすてき」と。CMを見てもらうには、オマケの番組のほうも「おもしろく」なくちゃね。アイスランド映画じゃだめだ、機関銃を撃ちまくって、建物が燃え上がり、ベッドシーンが出てくるアメリカ映画じゃなきゃ。A社が悪いんじゃないよ、君たちの多数派がそっちを見たがってるから、コマーシャルを見てもらう都合上、チャンネルを合わせてもらうために、そうしてるんだ。君たちの多数派が、くだらない映画に見向きもせずアイスランド映画を見たがれば、世の中もそうなるさ。ホントに民主主義だね。

ああ、だけど、コマーシャルの制作費用だって銃撃映画の制作費用だって莫大だぜ。それはA社が払ってくれるからどうでもいいって? ばかだな、みんなパジャマの値段に含まれてるに決まってるだろ。君たちねえ、パジャマなんて素材が適切でちゃんと仕立ててあれば、何社の何色のパジャマだっていいじゃないかい。B社をけおとすだけのために、パジャマ一着のためになんで怪獣映画を作らなければならんのかね。……そういう見方もあるが、他方また、娯楽番組だって見たい人は見たい。それがなくなったらつまらない。という見方もあるね。いま、ものすごく単純化して話しているから、細部にはこだわらないでくれよ。

本当に自由に競争したらどうなると思う? 「実力」があるほうが勝つさ。で、資本主義社会における「実力」とは? カネ、コネ、資本だよ、知的財産も含めてね。ぜんぶカネに還元できるのは分かるね。B社のパジャマのほうが、実際にはすぐれていたって、宣伝するカネがなきゃだめだ。流通させるカネがなくちゃ。大手スーパーマーケットの偉い人を豪華な食事に招待して「我が社のパジャマを販売してくだされば、ごにょごにょごにょ」と言える資本力がなくちゃ。こういうことを続けていくとどうなるね? そりゃ強いほうはカネに物いわせてますます強くなり、弱いやつは、ぞくぞく倒産する……当初の資本主義経済は、実際そうだったといっていい。そして強いやつは、安上がりで粗悪な製品を高く売れる。なんたってあんた競争相手を皆殺しにしたんだから、もうやりたい放題さ。独占ってやつだな。今は、そこまで図式的でもないんだが、まあ、大企業の横暴ってのは、あるかもね。

でも君、物事には原理がある。強いヤツはますます強くなり私腹を肥やす、ということはだね、だれかが損をしてるんだ。カネが「強いヤツ」のほうに集まってるってことは、だれかが奪われてるんだ。大企業A社とて、偽札つくってるわけじゃない。……「消費者」が損をしていると思うかな。もうちょっと深く考えてみよう。消費者だって偽札を作ってるわけじゃない。消費者が払うカネってのは、どこから来ているのかな。まあ、ふつうは働いて給料をもらってるわけですよね。A社の社員はパジャマを作る。その労働に対して報酬をもらっています。A社は儲かっているんだから、きっと給料もはずむだろうね。A社の社員諸君、うれしいかな。相対的には、うれしいだろうね。その社会のなかでは、ほかより給料、高いんだから。しかし……

まあ、いわゆるひとつの「搾取」ですか(笑)

話が核心に近づいてきましたな(微笑) A社がもうかってるってことは、A社を所有している資本家たちが大金をかせいでいる、ってことだよね。どうして資本家たちは大金をかせげたのかな。それはきみ、A社の社員がいっしょうけんめいパジャマを作ったからさ。A社の社員がいっしょうけんめい働いたおかげで、どんどんお金が集まってきました。はい。このお金は、何に対するお金でしょう。いま、すごく単純化して話しているから、じつは不正確な説明なんだけど、単純にいうと、A社に集まるカネは、A社の社員が提供した労働力に対する対価です。この報酬は、もちろんA社の社員で分けあいましょう、自分たちでかせいだお金なのだから……というのが共産主義です(かなりはしょった説明だが)。資本主義の場合、A社の社員が作り出した商品価値が、ぜんぶ社員たちには、もどりません。A社を所有する資本家たちが、いわゆる「搾取」をいたします。

このシステムのおかげで、資本家は、資本があるというだけで、その資本をどんどん増やせます。金持ちにとっては、たいへんすてきな社会です(いまの地球における日本も金持ちですね)。どんどん増えるからには、他方において、だれかがどんどん損をしています。労働者は、じつは自分が本当に働いて作り出した価値にみあうだけの賃金をもらっていないってわけです。働けば働くほどある意味で損をします(東南アジアあたりの日本の工場ですか)。諸悪の根元は資本家が資本を私有していることであり、パジャマ工場を労働者たちの共有のものにすりゃ、変な中間搾取もなくなって、もっと給料が高くなる、みんなハッピー、と『理論的には』そうなりますね。このことを最初に指摘したひとりが、みなさんも名はご存じでしょう、マルクスです。

しかし……。いろいろ言わなければならないことがある。まず、現在の(当初のではなく)日本の資本主義社会だけをローカルにみると、すでに部分的には共産主義を取り入れていると言っていい、とわたしは思います。高所得者からはたくさん税金をとり低所得者からはとらない、という「富の再配分」のシステムなんかにおいてです。第二に、マルクスは、高度に発達した資本主義が共産主義に移行する、というパラダイムを考えた。くだいていうと、リッチな国で、すでにりっぱな工場とか流通手段が整備されていて、それを私有から共有に移行させれば理想的だ、と。ところが、実際の社会主義(共産主義の前ぶれと思ってください)は、ちっともリッチじゃないロシア(旧ソ連邦)で実践された。……たぶん、この点は、マルクスにとっても計算外だったんじゃないでしょうか。生産手段が未整備なのにとつぜん共産主義を目指してしまった。理論はともかく、歴史が示すところによれば、これは失敗だった。言い換えれば、マルクス自身、人間の意識がある程度の段階に達するまでは「競争原理」が必要だと思っていた。わたしもそう思う。

もっと厳しくいうと、いまの君たちは、競争がないと、自分の能力を発揮してくれない。コミュニズムが成功するためには、「競争に勝つため」という動機づけなしに、各人が自分の個性にみあった能力を存分に発揮してくれないといけない。旧ソ連で使われた「競争原理」は、ノルマ、つまり自分との戦いでしたが、ノルマを押しつけてくるのは別の人だったでしょう。

いわゆる左翼の人々なんかの言い分

ある人々は、地球全体が共産的になって、貧富の差がなくなるというユートピアを考えました。また今も考えている人々がいます。「第○インターナショナル」の○の数字は、失敗するたびにインクリメントされます(微笑) ある人々の考えによると、この移行の過程において、最終的に共有物となるべき「すべて」は、いったん国有化されなければなりません。国有化というときの「国」は、えー、つまりこの人々が作った革命政府だったりします。このことは、資本家、つまりこの人々からみると「反政府ゲリラ」ですが、資本家が資産を奪回しふたたび私有化するのを防止するため、とされています。実際、旧ソ連では、工場などが国有化されたようですが、指導者たちの「人間的弱点」などもあって、結果的に共産党が独占資本家になってしまいました(とまあ、図式的にいえば、そんな感じでしょう)。みいらとりが、みいらになるってやつです。

この「第○インターナショナル」が実際に世界に広がる可能性と、「反政府ゲリラ」よばわりされている資本主義者の対立の、根本的なところがご理解いただけたでしょうか。資本主義の本家本元アメリカと、旧ソ連のいさかいを、わたしは、そのように見ています。ですから、アフガニスタンなりアンゴラなりベトナムなりキューバなり、どこであれ、共産主義政権ができれば、ソ連はそれを支援し、アメリカは妨害する、と。すでに大資本を蓄積しているアメリカにしてみれば、「地球全体で貧富の差をなくす」「階級をなくす」ことは「大損害」ですから。アメリカは裕福な国。貧しい国を支援し悪をくじく、尊敬される世界のリーダー。この既得権を失いたくないのは、現時点における「人間として自然な感情」でしょう。他方、旧ソ連邦の歴史をひもとくとき、そこにもまた、本質的には同様の、「人間らしさ」のわながあったことに気づくでしょう。今回は、ここまでにします。

「西暦3000年からの手紙」

途中経過を省いて、ひとつのパラレルワールドをお見せしましょう。ここでは、私有の概念は、ありません。「わたしの」子とか、「わたしの」親という概念もありません。ですから、過失で「わたしの子」を殺されたからといって、「親」が悲憤にくれて「犯人を死刑にして欲しい」と思うこともないのです。意味は分からないでしょうね。ぼくたちも、あなたがたの「私有」の意味が分かりません。……じつは、ここまでは、もうプラトンが書いています。そのもっと先をお知らせしたいのです。

わたしたちは、人格を私有するのもやめました。みなさんのことばには、うまく翻訳できませんが、「わたし」を所有するのも(もちろん所有されるのも)やめました。ですから、侮辱されて、かっとなって相手を殺すなんてこともありません。侮辱される「わたし」を持っていないからです。かっとなる「わたし」を持っていないからです。ラスコーの洞窟に絵をかいた人々は、みなさんの時代のことを想像だにしなければ、理解することもできないでしょう。そのように、わたしたちの文化は、みなさんの思考の枠組みとは、あまりにかけ離れています。

もうひとことだけ

資本主義社会とて、永久に成長しつづけることは不可能です。世界にある資源も消費者も有限ですからね。例えば、石油会社は、ぜんぶの石油を売り尽くしたら、おしまい。ミシン会社は、全員がミシンを買ったらそれでおしまい。物質の世界だけに関するかぎり、じつは、ただ物質が移動しているだけで(物理学的にいえば質量=エネルギーの配列が変わっているだけで)、本当には、なにも起きていないのです。「所有」の概念は――「私有」であれ「共有」であれ――、悠久の物理宇宙のなかでの、つかのまの、はかない共同幻想にすぎません。


意味の死:「常識」の はかなさ

2000年5月12日

西暦7000年の人々は「宇宙戦艦ヤマト」のセル画を発掘して、それを何に使う道具だと解釈するだろうか。

(画像)御坂町の土偶

自閉症に興味があるのなら、土偶を見て回るといい。これらの記号は何だろう。あなたには理解できない。偉い学者にも分からない。だが、うずまきの形は認識できる。自閉症は、そんなようなものかもしれない。

土偶の意味については諸説ある。しかしどの説が本当かは分からないし、本当の正解は、それらの説のいずれでもないかもしれない。現代日本語には、ないことばかもしれない。失われてしまった単語。失われてしまった概念。古代ギリシャの詩で太陽の妖精を「アルグロトクソス」と呼ぶ。「銀・弓」という響き。これは理解できる。細くあいたカーテンの隙間から差し込むまばゆい一条の日差し。だが太陽が「スミンテウス」とは、なんだろう。ある時代の人々にとって、太陽が「スミンテウス」であることは明白だったのかもしれないが、われわれにとって「スミンテウス」は意味のない文字列にすぎない。

核心は「土偶の真意は何か」では、ない。むしろそれは、どうでもいい。重要なのは、当時の人々にとって答は明白であったであろうこと、そして、今それが「分からない」ということだ。当たり前だったことが分からなくなってしまった。重要なのは、そこだ。

西暦2000年の文化もやがてそうなるだろう。土偶は妊婦、♀のヒトを表現したものが多いという。当時の人々にとって、それは明白に重要な問題だったのだろうが、その重要問題は我々には明白ではない。あれこれ推測することはできるが、明らかにこうだと断言はできない。あいまいなのだ。そのように、あなたがた西暦2000年代の人々が、例えば「オトコ」「オンナ」という概念を明白なものだと思っているとしても、西暦7000年の辞書には、それに相当する概念は、ないかもしれない。「そんなばかな」ある人々は叫ぶだろう。「オトコとオンナは明白で基本的な区別ではないか」と。では尋ねよう。なぜほとんどの土偶は破壊されて出土するのだろう。あなたは、くちごもる。土偶を作った人々、そしてそれを破壊した人々にとっては、すべては明白で基本的な常識だったとしても、それは、わたしたちには理解できない概念かもしれない。

これは不可知論のすすめでは、ない。文化的コーディングを「外から」見ることについて、話したかったのだ。


半神

2000年5月25日

May 23, 2000 PALERMO, Sicily (Reuters) / Italian doctors make painful choice on conjoined Peruvian twins (CNN) - 萩尾望都の「半神」に出てくる双生児姉妹はフィクションだが、これは実話だ。……マルタさんとミラグロさんは胸部で結合した双生児。ひとつの心臓、肝臓などを共有している。診断の結果、ふたりともが生存することは不可能で、一方が他方に「臓器を提供」しなければならないことが判明した。

火曜日、イタリアの小児心臓外科の第一人者マルチェッレッティ医師は、決断した。双子の一方マルタさんを助けるために、衰弱しているほうミラグロさんを殺さなければならない、と。第三者がドナーになれば、ふたりとも救えるかもしれないが、ミラグロ(スペイン語で「奇跡」)さんは、その手術にたえられないとの診断結果。

診察のため双生児姉妹をイタリアにつれてきた母親は語った。「すべてを神の御手にゆだねます」

手術の実施には、病院の倫理委員会の最終的な許可が必要だ。許可が出れば、数日中に執刀される予定。

「半神」では、同様に他方を犠牲にして生き残る分離手術がテーマになった。生き残ったほうの「双生児の片割れ」が、犠牲にしたほうに対していだく複雑な心理、そしてふたりの双生児のあいだのアイデンティティの混乱がドラマチックにえがかれていた。マルタさんにとっても、ある意味で、生き続けるほうに選ばれたことは、むしろ犠牲に選ばれたことだろう。ハートを与えられたほうは、ハートの痛みをも与えられるのだから。分離手術をしなければ、ふたりとも死んでしまうのだろうか? そのほうが良かったと思うのだろうか? 死ぬのは人間、もの思うのも人間。たしかに「すべては神の御手のうち」だ。

ひとつの心臓を共有する結合双生児。その一方を助けるために他方を犠牲にする分離手術(どちらが心臓をもらうか)について、a heart-wrenching decision という原文の表現は「見事」すぎて微苦笑を誘う。どう表現してもみもふたもない現実は、せめて見事に表現するくらいしかないのかもしれない。「心臓をもぎとられた」痛みを感じるのは、もぎとられなかったほう、なのだ。まさに「奇跡」。


2000年5月28日

そのとき、誰かが注意した。「一時四十分だ。燃料の最後の限界だ。もう飛行しているわけがない」すると平和が行き渡る。何か苦いような、味気ないものが、旅行の終わりのときのように、唇にのぼってくる。

サンテグジュペリ「夜間飛行」のこの場面は、「銀河鉄道の夜」の川の場面を連想させる。

みんなはまだ、どこかの波の間から、「ぼくずいぶん泳いだぞ。」と云ひながらカムパネルラが出て来るか或ひはカムパネルラがどこかの人の知らない洲にでも着いて立ってゐて誰かの来るのを待ってゐるかといふやうな気がして仕方ないらしいのでした。けれども俄かにカムパネルラのお父さんがきっぱり云ひました。「もう駄目です。落ちてから四十五分たちましたから。」

マルタという名は、ポーランド映画「パサジェルカ」に出てくる「死んだはずの囚人」の名でもある。マルタは生きるのだろうか。生きているのだろうか。分からない。生きるのなら、けっこうなこと。分離手術の奇跡的成功だ。生き延びないだろうか。かもしれない。難しい手術が失敗するのは、よくあることだ。生きつづけるのなら、「夜間飛行」の結びの一節をささげたい。

リヴィエールは、いま、静かな歩を運んで、自分のきつい視線の前にうなだれる事務員たちのあいだを通り、仕事が待っている支配人室へと戻る。偉大なリヴィエール、自らの重い勝利を背負って立つ勝利者リヴィエール。

「奇跡」(ミラグロ)から心臓をもぎとって生きのびる偉大なるマルタ、みずからの重い勝利を背負って生きる勝利者マルタ。生きるなら、ミラグロのぶんまで生きるだの、ミラグロにかわって生きるだの、なさけないことを言わないでほしい。「奇跡」によって与えられた生命、いくつものきわどい偶然をかいくぐって与えられた「奇跡の人生」を、奇跡としてではなく、地上に引き下ろしてこそ、奇跡は意味を持つ。ミラグロのために生きると考えることは、ミラグロへの、神への冒涜だ。

「人生には解決法なんかないのだよ。人生にあるのは、前進中の力だけなんだ。その力を造り出さなければいけない。それさえあれば解決法なんか、ひとりでに見つかるのだ」……リヴィエールは今、あの機上の搭乗員の上を思うと、胸が痛んだ。あの二人の搭乗員、ともすれば死んでしまうかもしれないあの二人の搭乗員は、幸福な生活を続け得た二人かもしれないのだ。……「愛する、ただひたすら愛するということは、なんという行き詰まりなのだろう!」リヴィエールには、愛するという義務よりもいっそう大きな義務があるように、漠然と感じられるのだ。

彼がもし、たった一度でも、出発を中止したら、夜間飛行の存在理由は失われてしまう。あす、彼リヴィエールを非難するであろう彼ら気の弱い者どもを出し抜いて、彼はいま、夜の中へ、この新しい搭乗員を放してやるのだ。偉大なリヴィエール、自らの重い勝利を背負って立つ勝利者リヴィエール。

追記:この記事を書きあげた直後、分離手術失敗のニュース(2000.5.28 2:17 +9:00)を知った。「手術では、最初にミラグロちゃんが切り離され、死亡した。医師団の長時間に及ぶ懸命なオペもかいなく、手術開始10時間後、マルタちゃんも心臓の変調で、死亡した。」現地時間27日のこと。



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